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松尾大社から見えてくる渡来人と日本の関わり

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京都市西京区にある松尾大社。酒の神様としても知られる松尾大社は、渡来人の一族である秦氏にゆかりの深い神社です。
古代祭祀の磐座から始まった松尾大社の歴史は、秦氏が日本へ溶け込んでいった歴史と、深く結びついていると言っても過言ではないでしょう。

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京の都の西に鎮座する松尾大社

松尾大社があるのは、京都市西京区嵐山町。阪急嵐山線の「松尾」駅か、市バス嵐山大覚寺行きか苔寺行きの「松尾大社前」バス停が最寄りで、どちらもJR京都駅から約40分で到着します。周囲には南に鈴虫寺として有名な「華厳禅寺」や、苔寺として名高い「西方寺」が、北には嵐山渡月橋があり、観光地として人気のエリアです。

松尾大社は「まつのおたいしゃ」と読むのが正式な呼び方。古来よりこの地域を「まつのを」と呼んでいたことに由来しますが、時代の流れとともに「まつおたいしゃ」という呼び方もされるようになりました。京都でも古くから住む近隣の人々は「まつのお」と、後から京都に移り住んできた人たちは「まつお」と呼ぶようで、地域の呼び方も「まつお」に変化しきているようです。

松尾大社は碁盤の目に敷かれた通りの一つ「四条通」の西端に位置しており、反対側の東橋には「八坂神社」が建っています。JRの京都駅から見ると北西にあたる場所で、松尾山の麓に建てられた神社です。渡来人の一族「秦氏」にゆかりの深い神社で、社殿を立てて祭祀する以前から、磐座(いわくら)で松尾山をご神体とする信仰があったと考えられています。

ご祭神は「大山咋神(オオヤマクイノカミ)」と「中津嶋姫命(ナカツシマヒメノミコト)」の2柱の神様。中津嶋姫命は「市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)」の別名で、機織りの神様として信仰されています。大山咋神は別名を「山末之大主神(ヤマスエノオオヌシノカミ)」といい、大山咋神については諸説あり詳細は不明ですが、山末之大主神は「山頂の偉大な主人」の意味です。日枝山(ひえのやま=比叡山)に鎮座すると同時に、松尾山にも鎮座していると言われています。

松尾山を信仰する古代祭祀の磐座が起源

松尾大社の創始については、701年(大宝元年)に現在の場所に社殿が創建されたとありますが、それ以前からあった松尾山を中心とした信仰が起源とされています。松尾山の山頂付近にある大杉谷に現存する磐座は、松尾山に宿る神々を祀っていた古い信仰を物語っている遺構です。太古の人々は、神々が山や森に宿ると考え、その神々を祭祀する神聖な森や山を、「神奈備」と呼んでいました。松尾山の他には「三輪山」や「稲荷山」などが有名です。

桓武天皇の時代の長岡京には、松尾山以外に交野山・衣笠山・大岩山と、4つの山が周囲にありました。桓武天皇は神奈備信仰を基礎として、山に囲まれたこの地を選んだと考えられています。このうち松尾山を奉斎していたのが、渡来系氏族の秦氏でした。秦都理(はたのとり)が松尾大社の神殿を創建し、山頂の磐座から神を遷したと言われています。松尾大社に斎子(いつきこ)と呼ばれる斎女を置いたのも、秦都理が始めたと記されており、創建から運営に至るまで、秦氏が管理していたようです。

整理すると松尾大社に至るまでは、まず古代からある自然神への磐座を中心とした原始的信仰が松尾山を中心に存在していたところへ、後から秦氏が勢力を伸ばして住み着くようになりました。持ち込んだ技術と知識で秦氏が地域へ受け入れられる家庭で、秦氏の信仰していた神々も、次第に地元の神々と融合していきます。力をつけた秦氏は、徐々に神職へと奉仕するようになり、最後には現在の地へ神殿の建設と、神社の整備を任されるようになっていったというのが、松尾大社が現在の姿になるまでの流れのようです。

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新羅から渡来してきた秦氏の祖

秦氏は渡来人の一族であることは、日本書紀に記載があり、新羅から渡ってきた「弓月君(ユヅキノキミ)」が、秦氏の祖となったと書かれています。新羅語の「ハタ」は海を意味したことや、海から渡ってきたハタビト(海人)などが、秦氏の名の由来のようです。当時、大陸からの渡来人たちは、日本に新しい技術や知識をもたらす、貴重な存在でした。彼らがもたらした製陶・機織・金工の技術が、当時の日本の生産力を向上させました。弓月君の存在については疑問が残るようですが、秦氏がそうした渡来人の一族であったことは、間違いない事実のようです。

日本書紀に見られるように、欽明天皇の時代に秦大津父(ハタノオオツチ)が、天皇に寵愛されることで、次第に有力な豪族に成長していったようです。幾つかに分かれた秦氏のうち、山城国の秦氏の集団の中では、とくに葛野地方の一族が勢力を伸ばしていました。彼らの持つ土木技術で、大堰を造り葛野川の流れを変えることで、周辺一帯の生産性を向上させ、ますます勢力を強めていきます。彼らの土木技術による治水事業は、湿地帯で川の氾濫も多かった当時の京都を、見違えるほど発展させたと考えられ、その後平安京が置かれることになった要因のひとつです。

こうして秦氏は治水事業で流域の人々と文化的に癒合を果たし、京都の中南部に勢力を伸ばしてきました。次第に中央の重要な役職も担うようになり、朝廷や神職へと活躍の舞台を広げていきます。秦氏は松尾大社以外にも、太秦にある「木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまのかみやしろ)」や、広隆寺の前身となった「蜂岡寺(はちおかでら)」など、幾つかの神社や寺院を創建しました。

葵祭と並び称された松尾祭

毎年4月下旬に行われる「神幸祭」と、5月上旬に行われる「還幸祭」は、ふたつ合わせて「松尾祭(まつのおさい)」と呼ばれています。古くは賀茂社の「葵祭」同様に勅祭のひとつで、三月中卯日に神幸祭・四月上酉日に還幸祭が行われていましたが、明治時代には四月下卯日・五月上酉日になり、現在では4月20日以降の日曜日に神幸祭が、その21日後の日曜日に還幸祭が行われるようになりました。冠や頭髪に「葵桂」を挿すのが伝統で、かつては「葵祭」と呼ばれていたこともあります。

4月に行われる神幸祭は「おいで」、5月の還幸祭は「おかえり」と呼ばれ、分霊を受けた神輿や唐櫃が松尾大社を出発し、各地に滞在した後再び戻ってくるという、文字通り行って戻ってくるお祭りです。神幸祭では、松尾七社の大宮社・四之社・衣手社・三宮社・宗方社・櫟谷社の神輿と月読社の唐櫃が、本殿から分霊を受け拝殿を3周した後、桂川を渡って各地へ渡御していきます。

衣手社の神輿は郡衣手神社に、三宮社の巫女は川勝寺三宮神社に、月読社の唐櫃と残りの東四社の神輿は西七条御旅所に到着し、そこに21日の間とどまった後、西寺跡にある「旭の社」に集結します。健在だった当時は西寺に集合していたようで、伏見稲荷大社の稲荷祭が当時まで渡御することを考え合わせると、両者には何か深い関係がありそうです。西寺に集合した唐櫃と神輿の列は、朱雀御旅所へ向かい、七条通りを西進した後、西京極・川勝寺・郡・梅津を経て松尾大社へ戻っていきます。

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酒の神としての松尾大社

日本人が酒と接するようになったことが、最初に記されているのは「古事記」のヤマタノオロチ退治の説話。素戔嗚尊が足名椎・手名椎に命じて、八塩折の酒を作らせています。日本書紀の応神天皇記には、秦氏が大陸から酒造りの技術をもたらしたことが記されており、秦氏は酒造りとも関係が深かったようです。割と早い段階から秦氏の酒造りは松尾大社と結びついていたと考えられますが、松尾大社が「酒の神様」と拝まれるようになるのは、だいたい15世紀頃からではないかと考えられています。

松尾大社の所蔵する「酒由来の事」には、酒造りの起源が神代までさかのぼると記されています。ことの真偽はともかく、そこに記されているように、古くから神に酒を奉納していたことは間違いないようです。また杉の桶や葉が酒の保存に用いられたことが記されており、このような酒にまつわる記述を持っていることから、松尾大社が酒の神様として信仰されるようになったのではないかと言われています。

この「酒由来の事」には、酒造りの心得も記されています。
「心持ちを正常にして、利欲をむさぼらず、正直を第一と信心して酒を作るべし。」
酒造りだけでなく、日頃の行いにも通じる、人としての心得を説いているようにも聞こえてきます。

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