大原三千院は皇室とゆかりの深い門跡の祖

2017-09-03

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大原といえば三千院というほど、大原を代表する寺院として有名な三千院。
ところが大原で三千院と称するようになったのは、明治に入ってからと実はわりと最近のことだというのは、あまり知られていません。
その起源から、名を変え場所を変え、連綿と受け継がれてきた歴史の中に、知らぬ人のないほど有名になれた秘密が隠されているのです。

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古来より貴人に愛された大原にある三千院

三千院は京都市左京区大原にある天台宗の寺院。山号は魚山と号し、青蓮院・妙法院とともに、天台宗の三門跡のひとつです。歴史を感じさせる三千院ですが、この地で「三千院」を称するようになったのは、明治時代に入ってから。それまでは各地を転々とし、その時々で名前も変わってきました。大原は地図で見ると京都市の右上、左京区の比叡山よりもさらに奥に位置しています。最寄りに鉄道駅はなく、公共のアクセスはバスのみ。京都駅からは約1時間、私鉄の駅からは約30分の距離にあり、バス停からも10分程度歩きます。街の喧騒からも遠く離れ、静寂な雰囲気が漂うエリアです。

三千院以前から大原は朝廷とのゆかりが深く、比叡山に近いことから延暦寺の強い影響を受けた里でした。比叡山を降りてきた僧たちが、静かな大原の地に草庵を建て、修行の日々を送ったのが始まりのようです。別所と呼ばれる僧たちの住まいは、最盛期に49にもなりました。修行僧以外には宮古から喧騒を逃れてきた貴人や文人たちが集まります。最も早い時期にこの地を訪れたとされるのは惟喬親王。文徳天皇の第一皇子でありながら、藤原氏の圧力で皇太子の座を譲り、大原に隠棲した貴人です。このころの在原業平とのやりとりが、伊勢物語に残されています。

三門跡の祖となる円徳院の頃

三千院の寺伝によると、伝教大師最澄が比叡山で根本中堂を建てた際に、東塔南谷の梨の大木の下に一宇を構え「円融房」と称したのが始まりとされ、これをもとに三千院の開基は、最澄とされています。この場所に堂宇を建て、最澄が自ら作った薬師如来を本尊に、「円融院」としたのが承雲和尚です。承雲和尚は東阪本梶井に大きな伽藍を建て、住まいのための里坊を設けました。1086年(応徳3年)に白河天皇の中宮・藤原賢子(けんし)の菩提を弔うため、この里坊に本拠を移し「円徳院」と称するようになります。このころから、元々の地名や加持祈祷のための加持井があったことから、「梶井門跡」と呼ばれるようになりました。

「門流」が同じ教えを受け継いでいく一派として、思想的な結びつきの寺院の流派を示すのに対し、「門跡」は寺院が勢力を増すに従って次第に増していった寺宝や、本堂をはじめとする伽藍の建物などの財産を守っていくために生まれた、いわば寺院の「管理運営」や「相続」についての権利の範囲を指していました。最も勢力を増していた天台宗特有の考え方で、この門跡に皇族の住持が運営するようになり、のちにここから延暦寺の天台宗座主が多く輩出されるようになったことから、次第に皇族の運営する寺院を指して「門跡」と呼ぶようになります。その後建てられた妙法院と青蓮院の3つでほぼ天台宗座主を独占していたため、特に三門跡として重要視されました。

梶井門跡に最初の皇族が入寺したのは、1118年(元永元年)の最雲法親王です。法親王は第14世梶井門跡となり、円徳院を「梶井宮」と称するようになります。1156年(保元元年)に法親王が初の皇族出身の天台宗座主となり、その後も後白河天皇の皇子・承仁法親王、後鳥羽天皇の皇子・尊快入道法親王、後醍醐天皇の皇子・護良親王など、多くの座主を出しました。

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皇族にゆかりの深い文化サロン的な寺院に発展

1232年(貞永元年)に本房を焼失した梶井門跡は、洛中から西ノ京、東山と各地を転々と移り、1250年(建長2年)に北山の紫野に移りました。紫野に映った梶井門跡は、宮中での御懺法(おせんぼう)の導師を務めるようになり、ますます栄えていきました。御懺法は御経を読誦して懺悔をする法要のこと。天台宗や禅宗のものが有名です。船岡山の東に栄えた梶井門跡の様子は、当時の書物にも書き記されています。園地の広がった門跡では、四季折々の花が咲き、淳和天皇の離宮・雲林院とかけて、「雲の林の中に花盛り」と壮麗な寺院だったようです。

書物にも名を残すほど栄えた紫野の梶井門跡ですが、応仁の乱により本房を焼失してしまいます。そのため、梶井門跡は最雲法親王が天台座主になってから設置した、大原の政所へ移って仮御殿としました。政所は当時の大原の修行僧たちの取り締まりをするために設置された部署で、以前からあった寺院の管轄も行っていました。その後江戸時代に入るまでこの大原が本房となりますが、五代将軍綱吉が洛中の河原町御車小路の土地を寄進され、そこへ本房を移転したことにより、大原は再び政所としての役割に戻ります。

本房が御所に近くなったことや、当時の後西天皇と梶井門跡の門主・入道慈胤親王が叔父と甥の関係だったことなどから、皇室と梶井門跡は頻繁に交流を深めるようになりました。また、入道慈胤親王は茶の湯に傾倒し、禁中・公家の茶を大成した人物で、しばしば皇族や法親王を招いた茶会を開催していたようです。梶井門跡は次第に茶の湯を中止とした、皇族にゆかりの深い文化サロンの役割を担っていくようになりました。

再び大原の地で三千院として出発

明治維新の廃仏毀釈の波は、梶井門跡にも例外なく訪れました。門跡の門主だった昌仁法親王は、還俗し「梶井宮守脩親王」となり、その後「梨本宮」と改称します。門主のいなくなった洛中の本房は廃止され、仏像や寺宝は大原にあった政所へ移されました。1871年(明治4年)にこの大原の政所を本房と定め、梶井門跡の持仏堂の名称であった「三千院」を号するようになりました。これが現在に続く三千院です。

大原に映った三千院の境内は、北を「呂川」南を「律川」と呼ばれる二つの川に挟まれています。川の名前は大原に生まれた「声明」の音律に由来したものです。声明は仏教の経典を唱える際に、節をつけて美しい音色で表現する手法のこと。慈覚大師円仁が中国の山西省五台山で学んだ声明を持ち帰り、それをもとに大原を「魚山」と名付け定着させたと言われています。その声明を比叡山東塔の常行堂衆だった良忍が、大原に隠棲した際に一本化し、融通念仏の布教とともに広めたのが現在の大原の声明となっています。「ろれつが回らない」はこの「呂」と「律」の旋律をうまく唱えられないというところから生まれた言葉です。川の源となる「音無の滝」は、素晴らしい声の持ち主だった良忍の唱える声明に、鳥や魚も動きを止め聞き入り、滝も音を止めたという伝説が残っています。

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三千院よりも古い往生極楽院と大原の自然

三千院に内包されるように建っている往生極楽院は、真如房尼が亡き夫の高松中納言実衡のために建てた寺院です。今は三千院の一堂宇ですが、建てられたのは1141年(永治元年)と、大原に政所が設置されるよりも古く、大原の一寺に数えられていました。内部に安置されているのは本尊の阿弥陀如来坐像と、その脇侍の観音、そして勢至菩薩坐像の三尊。どれも国宝に指定されており、この世の極楽を表していると言われています。こじんまりした入母屋造りの御堂の内部は、船底天井の構造が内部を広く見せる効果を出しており、堂宇の建築としては他に類を見ない工法なのが特徴です。

三千院の境内は、南北を流れる呂川と律川の音や、庭の滝水の音など、水の音が遠くに近くに聞こえています。古来より多くの人々の心を癒してきた水音に、しばし耳を傾けながらゆっくりと大原の静けさを巡ってみてください。

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