日本画

黒田清輝の『湖畔』には最後に愛した女性への想いがあった

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「朝妝(ちょうしょう)」

日本近代洋画の父と呼ばれているのが黒田清輝です。黒田清輝は、9年間のフランス留学を経て日本でも数々の優品を描き出しています。その代表作に「湖畔」という作品があります。黒田清輝の「湖畔」とさまざまな美しい絵を描き出した彼についてご紹介していきます。

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「湖畔」に描かれた女性は黒田清輝の妻照子夫人

「湖畔」東京国立文化財研究所蔵

「私の23歳のときで良人が湖畔で制作しているのを見に行きますと、そこの石に腰をかけてみてくれと申しますので、そういたしますとよし明日からそれを勉強するぞと申しました。翌日の午後4時頃からはじめました。雨や霧の日があって、結局1ヵ月くらいかかりました」

これは黒田清輝の妻の照子夫人が「湖畔」の制作されるきっかけについて語っている有名な言葉です。1897年(明治30年)黒田清輝が妻を連れて箱根に行ったときに「湖畔」を制作しています。芦ノ湖の青く澄んだ湖と緑の山を背景に岩場に腰かける納涼姿の照子夫人の鼻筋の通った美しさが見る者の目を惹きつける作品です。

日本的な景色と湿った大気感を出すのに淡い色調で鮮明に描き出しているところに日本画と西洋画を混合させた黒田清輝が極めた技が出ているようです。「湖畔」は、同じ年の第二回白馬会展で「湖畔」ではなく「避暑」と題して出品されています。

明治33年(1900年)パリ万博でも出品され、今では「湖畔」の題で広く世間に知れている黒田清輝の代表作といえる絵です。

「湖畔」のモデル照子夫人と黒田清輝

「箱根芦ノ湖」

黒田清輝は、島津藩士の黒田清兼と八重子の長男として生まれたのですが、生まれる前から清兼のお兄さんの清綱のところに養子に出されることが決められていたそうです。生活環境は恵まれていたようなので養子になる経緯については複雑な事情があったのではないかと言われています。

養母と実母と共に東京の麹町平河町にある7000坪の敷地を持った清綱邸に入りしばらくの間は、養母と実母の2人に育てられていたそうですが、実母はその後離婚されています。養母には、実子がいなかったこともあり清輝をかわいがっていたといいます。

養父は、清輝に法律家への道を期待し、フランスへ留学させることにします。清輝もはじめのうちは養父の期待に答えるように法律家を目指していたようですが、フランスで藤雅三と出会った縁で画の師となるラフェエル・コランとの出会いにも繋がり、しだいに絵に大きな関心を持つようになります。

そこからは、ラファエル・コランに絵を学び、さらにグレーの街を絵の制作拠点にしていきます。はじめは同村のホテルで住み絵を描いていたのですが、そのうちモデルをしてくれた娘の家の一隅を借りて生活するようになります。

この時のモデルが20歳のマリア・ビョーで後に黒田清輝の恋人になった女性と言われています。9年の年月を経てフランスから帰郷した黒田清輝は、父の勧めた相手と一度結婚しているのですが、長くは続かなかったようです。

「黒田清輝記念館」

照子夫人と正式に籍を入れたのは養父が亡くなってからだったそうです。黒田清輝の代表作として最も注目される有名な絵の「湖畔」から15年の年月を経て描かれた照子夫人の絵に「婦人肖像」という絵があります。

この頃の黒田清輝は、東京美術学校教授、文展審査員と世間から日本近代洋画の父と呼ばれるほど有名になっていました。「婦人肖像」に描かられた照子夫人は、唐草模様の和装姿で赤紫色の背景に凛とした美しい表情が印象に残ります。

爵位を継ぎ貴族院議員となる黒田清輝の婦人としての立ち居振る舞いはすばらしいと、世間からも言われていた照子夫人の様子がにじみ出ている絵です。「湖畔」「婦人肖像」には、黒田清輝の妻への深い愛情が見えてくるような優しさに包まれた絵でもあります。

もちに「湖畔」の絵に繋がる日本女性の美しさを描いた話題作

「舞妓」東京国立博物館 重要文化財

「湖畔」を描くもう少し前に描かれた作品が「舞妓」です。フランス留学から戻った黒田清輝は日本の美しさを追求していきます。そこでまず、訪れた場所が京都でした。

黒田清輝は、京都の印象について一番はじめに見学した円山から祇園を見てとても驚いたと言います。京都には東京と違った風俗があり、珍しい国に来たと思ったそうです。特に舞妓さんを見て天下無類の存在に感じ、西欧人がよく日本の女性は小さな綺麗な鳥のようだと言っていたことを思い出します。

そして、綺麗で触ったら壊れてしまいそうなひとつの飾り物だとも思ったそうです。とにかく珍しくてたまらない存在のように感じ、すぐにこの不思議な人間の写生をはじめたそうです。日本を早く出たため、戻ってきたときには、外国人の眼で日本の美に触れたような感覚だったようです。

黒田清輝が京都で一番衝撃を受けた「触れたら壊れてしまいそうな綺麗な鳥で不思議な人間」が舞妓であったことがわかる当時のスケッチが何枚も残されています。このスケッチから「舞妓」が完成されていきます。

「舞妓」に描かれた少女は凛としていて彼女の実年齢より、はるかに落ち着きのある物腰しに気品さえ感じさせます。何かを伝えに来た少女との日常が垣間見えてくるリアリティもそこにはあります。

背景の加茂川の流れと舞妓の黒地の振袖に鮮やかな模様、朱色の刺繍が入った半襟(はんえり)緑の座布団の彩色もまたこの絵の見どころになっています。黒田清輝の絵の中でも「湖畔」同様に人気がある絵です。

「舞妓」は、西洋画の油絵独特の良さがあります。ここから「湖畔」の西洋画と日本画の融合した美しい優しい絵が生まれてきているようです。黒田清輝の絵には深い愛情と強い意思が見えてきます。ぜひ、黒田清輝「湖畔」を見る参考にしてみてください。

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黒田清輝の美しい技法に迫る

「アトリエ」鹿児島市立美術館蔵

ラファエル・コランの教室アカデミー・コラロッシーの一室で、半裸の女性にイーゼルの画布を前に座る学生が、黒田の友人でアメリカ人のグリフィンかイギリス人のクレランス・バードだと言われています。

黒田が同じ一室でこの絵を描いているということを思わせないほど、半裸の女性とイーゼルの前に座る男性の親密な空間が漂って見える絵です。この視点が面白く黒田だから出せる技と美しさです。
「裸体男半身」は東京国立文化財研究所蔵の作品で、アカデミーコラロッシーに通い木炭による人体素描が日課であった黒田は1週間ごとに新しいモデルを描くことに取り組み、夜間は別のデッサン学校に通い解剖学や美術史の講義を受け的確な素描力を身に付けた、そのなかのひとつの作品が「裸体男半身」です。
鹿児島県歴史資料センター 黎明館蔵の「赤い衣を着たる女」は、赤い衣と背景の緑の対比が明快で、上品で美しい女性像が背景からくっきり浮き上がってくるように見えます。また、散財する朱紅色の花が画面に張りを与える効果を呼んでいる作品です。

庭園の草花と人物を組み合わせる構図は黒田が特に好んで用いていた構成で同様の構図が黒田作品には多く見られます。
「樹蔭(こかげ)」
第3回白馬会展に出品され1900年にパリ万博でも出品されたのですが、その後この絵の消息が分からなくなっていました。

再び日本に戻ってきたときには大きな話題にもなった「樹蔭(こかげ)」は、野辺に横たわる農家の娘に樹間からもれる柔らかい光が上手く表現されています。

緑に白い鉄砲百合の花が添えられた構図は、まさに黒田好みの構成で美しさのなかに優しく清潔な画面が広がって見えるのが特徴です。
東京国立文化財研究所蔵されている「花野」という作品は、師コランの筆致と画趣に寄せているものです。この絵の画面には空が全く見えないように描がれています。この構図がまさに日本の伝統的な構図でもあるのですが、裸体表現に西洋的な構想が取られているのが黒田の技です。この絵は「ジャポニズムの里帰り」とも言われています。

黒田清輝の功績

黒田清輝の妻の昭子婦人がモデルで描かれた作品に、東京国立文化財研究所蔵の「婦人肖像」があります。赤紫色の背景のなかで気品と落ち着きのある姿が昭子夫人の美しさが際立っています。晩年の黒田は東京美術学校教授、文展(文部省美術展覧会)の審査員を務めていました。

黒田清輝は、日本に西洋画の技法を取り入れ新風を吹き込んだばかりではなく、多くの学生を育て西洋画の発達を開始した功績があり、今でも高く評価されています。しかし、ここまでの道のりは決して楽なものばかりではなかったようです。

「日本の近代洋画の父」と言われる黒田清輝作品の魅力を味わってみてください。

黒田清輝 西洋画の基礎は裸体である! 彼の作品が美しすぎる

「野辺」
近代洋画の父と言われた黒田清輝は、ラファエル・コランに弟子入りし、9年間のフランス留学を経て日本に斬新な洋画を持って現れました。

黒田清輝の絵に「裸体を描くなど風俗的な絵は断固許せない!」といった論争が起こりはじめます。黒田の絵は当時の日本人には、衝撃的だったようです。

しかし、黒田は、ひるむことなくむしろ望んでいたことと挑む覚悟で出したのです。黒田は西洋画を学ぶ過程で裸体表現がどれほど絵に重要なものであるか身を持って知っていたからこそ、世の中に問いただす必要があったと考えていたようです。
「裸体婦人像」
「裸体婦人像」は再渡仏したときパリ万博で出展されたものです。師であるラファエル・コランは、「黒田は日本に帰って絵が下手になった」と、この絵を見てつぶやいたそうです。日本では、この絵の下半身に布をかぶせて出展するという異様な展示方法が取られ、論争を呼びました。

師匠ラファエル・コランも絶賛!官能性に富んだ絵

「マンドリンを持てる女」

「マンドリンを持てる女」は、女性のピンク色に透き通るような半裸の姿が官能的な美しさを漂わせています。マンドリンを持っているところに、ただ半裸の女性を強調したというわけではなく、西洋画的な魅力や西洋画の伝統をフルに発揮している作品として知られています。

この作品はサロン出品を目指して制作されたのですが、その年のサロンには間に合わず翌年「読書」と一緒にサロンに出品しましたが、「読書」だけ入選するという結果に終わりました。

「読書」

しかし、師であるコランはこの作品を賞賛し、この絵に「源清輝写」と、日本人がこの絵を描いたと分かるように署名するよう勧めました。

ちなみにモデルは、当時黒田清輝(23歳)の恋人マリア・ビヨー(19歳)を描いたものです。黒田は、鎧戸化を通して差し込む光がマリアの頭や衣服に微妙に反映するように試行錯誤をし、特に衣服の色を何度も塗り替えているほど苦心しています。

黒田清輝の近代洋画に鳥肌が立つ!物議をかもした絵

黒田清輝「読書」は、フランスへ留学した当時に描かれたものです。入選作品のひとつとして選ばれています。黒田清輝の数々の洋画には当時の日本人には衝撃だったようです。
詳しくご紹介していきます。

黒田清輝という人物

先にお伝えしていますが、1866年(慶応 2 年)薩摩藩士であった黒田清兼、母八重子の長男として生まれています。しかし、誕生時から父の兄である黒田清綱の養子になることが決められていました。
父黒田清兼は鹿児島県神宮宮司を務めるなどし、兄である清綱は、はじめ島津藩主久光のもとで御奉公役につき、その後幕末新期の戦いで数々の武勲をたて、明治になると、東京府大参事、文部少輔、元老院議官になるなど、開花期の顕官であったようです。

黒田清輝は、かなり裕福な家庭に育てられていたようで、大学予備門に入学するために英語を学び、神田の共立学校に入学しましたが、その後築地の英学校に変わります。しかし、翌年には法律を学ぶためにフランス語を学びはじめ、フランスへ法律を学ぶことを目的に留学をします。

留学をしたフランスで絵の面白さを知り、法律から絵の世界へ変わっていこうとしますが、父は猛反対したようです。

ここから、黒田清輝の絵の道へ進めていきます。

ラファエル・コランを師として絵画の世界へ

ラファエル・コランの「花月」
黒田清輝は、ラファエル・コランに入門することを決意します。入門当初は、ラファエル・コランからルーブル美術展で石像を写すことを指示されていました。これが「基礎的な素描」の教えであったようです。

「西洋画の教授法というのは、はじめから終わりまで人体ばかりで、景色画などは夏休みにやるとか、またかたわら自己の嗜好によってやるだけで、普通の稽古というと裸体画ばかりで、私などちょうど5年間ほどやりました」と本人が記しているほど、現在東京国立文化財研究会に全紙大の紙で描かれた黒田清輝の素描170点のうち90点が人体素描だそうです。

フランスで描かれた絵の魅力にせまる

黒田清輝はパリ郊外のグレー・シュル・ロワンという自然に囲まれた場所に移ります。

「針仕事」をはじめ「読書」のモデルになっている女性は当時黒田清輝がお世話になっていた家の娘マリア・ビョーという名前の20歳の女性で、黒田清輝の恋人だった彼女をモデルにした作品が数多く残されているようです。

物議をかもす黒田清輝の絵

「朝妝(ちょうしょう)」はフランス滞在10年間最後の卒業制作です。目覚めたばかりの女性が鏡に向かって髪をすいている構図作品で、黒田清輝の日本人の裸体画に対する先入観を打破しようとする意図があったようです。

この作品完成後ラファエル・コランの批評を受け、Socie’te’ National Beaux-Art(サロン・ナショナル・デ・ボザール)に出品し入選しました。

その後日本に帰った黒田はこの絵を第6回明治美術会に出品し、翌年、1895年(明治28年)京都での第4回内国勧業博覧会出品の際に、「この裸体画は芸術ではなくわいせつ物である」と出品の可否をめぐって論争がおき、社会問題にまで発展しました。
これは当時の新聞の挿絵で、「問題の絵」「風紀を乱す」「芸術ではない」「わいせつ」などと書かれて掲載されました。

これに対し黒田清輝は、一歩も引かず「世界普通のエステティックは、無論日本の美術の将来に取っても裸体画の悪いということは決してない。悪いどころか必要なのだ。大に奨励すべきだ(中略)今多数のお先真っ暗連がなんとぬかそうと構ったことはない。

道理上オレが勝だよ。兎も角オレはあの画と進退を共にする覚悟だ」と、友人で同じく画家の久米桂一郎に送っています。彼の意志を受けたかのように久米も行動に移します。

「裸体は美術の基礎」と国民新聞、毎日新聞に公表し、「今回の博覧会当事者が裸体画の出品を許可したのは、さすがに見るところありと信じる」と述べてから、裸体画を春画同様にみなしている諸新聞の論調に対しては、「美術とは絵画彫刻そのものを指すのではなく、美の定義に適している絵画彫刻をいうのであって、春画の風紀を壊乱するのは絵画そのものになくこれを描きたる意識にあるもの」と強調しました。
その後も、黒田清輝は裸体画を描くことを進めていきます。
第6回白馬会展出品の「裸体婦人像」に関しては、当時裸婦の下半身を布で覆って展示される事態に発展しました

黒田清輝の試み

「昔語り」は、京都清閑寺を訪れた際、そこの僧が物語る「平家物語」の説話を聞いたときのことが影響して出来た作品のようです。

これまでの復古主義的(過去の体制を正当化したもの)な風俗画とも、歴史画とも違い歴史から出たイメージを表現するために構成された同時代の風俗画を意図したものです。

この絵は黒田清輝の意欲作で、彼の敬愛するピュヴィス・ド・シャヴァンヌの「休息」から影響された絵とも言われています。西洋絵画の伝統のひとつである「味覚」「聴覚」「触覚」「臭覚」「視覚」という人間の五感の働きを描く表現がされているからです。

「遠い昔の物語を聞く人々という設定により、過去と現在をひとつに重ね合わせているだけではなく、さまざまな登場人物を通し、人間の全体像を表現しようとしている」と言われています。この絵はその後の大戦で消失しています。

黒田清輝の残した絵の世界

「湖畔」黒田清輝の妻種子(当時23歳)が箱根の芦ノ湖を訪れた際の情景を描いた作品で、重要文化財に指定されています。この絵は下絵なしで書かれたもののようです。
「舞妓」は、彼が帰郷してほどなく訪れた京都での思い出を絵にした作品です。黒田清輝は「祇園町の舞妓杯にいたっては天下無類ですね。実に綺麗なものだと思いました」と語っていたようです。

晩年の黒田清輝は、政治家として美術に関わることや外交に尽力をつくすなどしていたようです。彼が美術家会の改革に果たした役割は大きかったようです。
ぜひ、黒田清輝の絵の世界に浸ってみてください。

日本で出会う黒田清輝の西洋画に魅了される

「黒田清輝自画像」

日本近代美術の巨匠と呼ばれている人物が黒田清輝です。日本絵画の世界では、明治維新をきかっけに大きな転換期に入ります。それは、ヨーロッパの美術や技術が多く取り入れられるようになった背景にあります。

その中で黒田清輝は、新しい風を吹き込み、洋風美術を発展させた人物と言われています。ここから、黒田清輝が描く絵画の魅力について詳しくご紹介していきます。

黒田清輝 法律学研究から画家へ

「レンブランド解剖図模写」東京芸術大学蔵

「テュルプ博士の解剖学講義」レンブランド・ファン・レイン作

法律学研究を目的にフランスに留学した黒田清輝でしたが、洋画家の藤正三が工部省の留学生としてパリに来たことがきっかけになり人生が変わっていきます。藤正三は、リュクサンブル美術館でラファエル・コランの「花月」の絵を見て感動し、彼から絵を学ぶことを決意します。

しかし、藤正三は、フランス語があまり得意ではなかったので、コランの言葉を理解することが出来ませんでした。そこで、黒田清輝に通訳を依頼します。もともと絵が好きだった黒田清輝は、この話を快く引き受けました。このことが縁となり、彼もまたラファエル・コランから絵を学ぶことになります。

「レンブランド自画像模写」黒田清輝作

「レンブランド自画像」レンブランド・ファン・レイン作

それから、黒田清輝はベルギー、オランダをたびたび訪れ「ヘーグ博物館」でレンブランド作の「解剖図」の模写を試みていきます。この時、1週間に2回行われるエコール・デ・ボザール美術学校で美術解剖学も学んでいったそうです。

その後、同じくベーグ博物館で「レンブランドの自画像」の模写も試みていきます。この頃から絵の完成度が高く優れていたようです。

フランスグレーの町で描く黒田清輝の作品

「田舎家」東京国立文化財研究所蔵

フランスで絵を学び、木炭から油絵で描く許可をラファエル・コランからもらった最初の作品と言われているのが「田舎家」です。この絵は、黒田清輝が滞在中に食事をしていた田舎飯家の裏庭を描いているそうです。

この頃、コローやミレーの絵に熱中し、レンブランドの絵を学んでいた影響で、褐色系の色を使って全体をまとめる絵にしています。描写が細かく美しい田舎家の落ち着いた雰囲気が目に浮かんでくる技巧には、すでに優れた才質があると言われています。

「摘草をする女」

本格的に画家を目指した1981年(明治24年)から数多くの作品を残していきます。「摘草をする女」もこの頃描かれた作品です。パリから南東に行ったグレーという町で、風景や人物をモデルに数多くの優れた作品が描かれています。

初春に摘草をする黒い服を着た女性が籠を持ち、片膝をたてている姿を見事に捉えられています。この絵を描いている頃、黒田清輝の父親にあてた手紙には「田舎の女子が野ニてよめなを摘む処の図ニて御座候 この頃の天気ハ真ニ春ニ御座候」とあります。

「草つむ女」

この絵の色調は全体に淡く籠は木炭のまま素描されているようです。翌年には「草つむ女」で、色調が明るく描かれていきます。同じくグレー時代に描かれた作品のなかに「赤髪の少女」という作品があり、黒田清輝の作品のなかでは珍しい構図で描かれています。

少女の背中を通して観る人の視線を林の奥へと導いていき、一歩下がった状態から見えてくる現実的な眼差しが、そこにいるような感覚にさせてくれる作品と言われています。

「赤髪の少女」東京国立文化財研究所蔵

「夏」という作品では、グレーの土地にパリからモデルを招いて、すわる女性、立つ女性、ふせる女性をそれぞれデッサンして描いていったそうです。しかし、モデルを雇う費用が思いのほかかさんだためこの絵は未完成のままになってしまいました。

「落葉」

「夏」から「秋」の情趣を描いた作品が「落葉」です。画面を斜めに切ったポプラ並木の幹の並列や枝がいりまじって描かれているところがおもしろい作品と言われています。色彩も黄色、褐色、紫灰色で印象派の効果を表しています。これは、グレーの地に多くの外国人画家が滞在し、その影響を受けて描いた試みだったようです。

「菊花と西洋婦人」

1893年(明治26年)春の独立美術協会のサロンに出品したグレー時代最後の作品が「菊花と西洋婦人」です。紫黒色の大きな花瓶には色とりどりの菊があふれんばかりに飾られ、その傍らに2人の若い西洋婦人が描かれています。純化された色調がお互いの調和をうまく出している点が優れていると言われています。

黒田清輝は西洋画家として日本で初めて選ばれる

「菊花図」東京国立博物館蔵

黒田清輝は、菊の花が好きだったようで、「菊花と西洋婦人」のほかにもいくつか菊の絵を残しています。そのなかには、戦前に日本の宮内省で運営されていた『帝室技芸員』に選ばれ描いた「菊花図」(東京国立博物館蔵)があります。この絵は、宮中に献上されています。

ちなみに帝室技芸員とは、日本の優れた美術家や工芸家を選び、栄誉を与えて保護し、社会の奨励と発展を図ることをしていたそうです。(1947年廃止)

「菊花図」

同じ「菊花図」で描かれた作品では、色とりどりの中菊小菊を描いています。宮中に献上したつつしみ深い筆とは違い「菊花図」は、軽快に自由に描かれている特徴があります。黒田清輝は、様々な西洋画を残し、日本人だけではなく世界中の人に愛された画家でした。ぜひ、黒田清輝の西洋画の魅力に触れてみてください。

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