日本画

短い命を惜しまれた画家速水御舟とは 彼の『炎舞』に息を飲む

2017-09-29

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「炎舞」山種美術館蔵 重要文化財

幻想的な美しい「炎舞」の絵を描いたのは、速水御舟です。「炎舞」=速水御舟のイメージを持つ人も多いといいます。そこで「炎舞」と速水御舟について詳しくご紹介していきます。

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速水御舟の最高傑作「炎舞」とは

「炎舞 日本切手」

幻想的に燃え上がる炎、蛾が華麗に舞う「炎舞」は、速水御舟の最高傑作と言われています。美しい中にどこか儚さを感じさせるこの絵から目が離せなくなるのではないでしょうか。
大正14年の夏に速水御舟は家族と一緒に軽井沢で過ごしています。

その時に描かれ絵が「炎舞」です。焚き火に群がる蛾をみてこの絵の構想が浮かんだそうです。縦120cm横53.8cmの決して大きい絵ではないのですが、この絵には人を惹きつける力があります。

「炎舞」を完成させるまでに火を何度も観察し、時には仏画の光景にある炎の文様を研究したといいます。写実的でありながら神秘的な「炎舞」には、真の美の世界観が表現されていると言われています。また、「炎舞」には、速水御舟の思想、精神の象徴といったものが絵にされているようです。

「炎舞」を描く速水御舟

「芸術を壊してまた組みたてるという集中力と燃焼力が速水御舟にはあったと言われています。そこが「炎舞」の絵に彼の思想や情熱があると言われている由縁かもしれません。そこで、もう少し詳しく「炎舞」を生み出した速水御舟について進めていきます。

速水御舟は、幼いころから負けん気の強いいたずら好きの少年だったそうです。近所の雨戸を外して隠してみるようないたずらをしたというエピソードも残されています。そんな彼も小学校高等科を卒業後、安雅堂画塾に入門します。

ここには、今村紫紅、上原古年などがいたそうです。その時、先輩の中島光村から「絵というものは本当に見て本当に工夫して描かなくてはならぬ」と言われ『写実』というものの奥の深さを知ったといいます。

それからは、絵の上で苦難を感じる時は、この言葉を常に格言のようにしていたそうです。そして、速水御舟は、終生その言葉通り絵に打ち込んでいきます。後に日本画の小林古径も「速水君は何事によらず正面を見ただけでは済まさなかった。さらに改めて裏から見直すというように物を通じ、形を鑿ちて(つきとおすの意味)その真髄に徹する性格だ」と語っています。

さらに、速水御舟は自分自身のことも含めて常に冷静に物事を見る観音のような眼を持つ人物だったと言われています。そのことがわかるエピソードとして小林古径は速水御舟が事故にあったときのことをこう記しています。

「何しろ電車に轢かれた時、たしかあれは電車と電車の間に挟まれたんだと覚えていますが、前へも出られず後ろへもひかれないので、とっさに足を犠牲にする決心をしたそうですから、普段なら考えつかないでしょう。聡明なことはそれでもわかります。それからその時なにしろ人を轢いたというのでたちまち電車数珠つなぎになってしまった。

それを見てそこに倒れている速水君が『電車を出せ』といったそうですよ。轢かれた当人が電車を出せっていったんですからね」(「燈影」昭和10年5月号より)この事故で速水御舟は、左足を切断してしまいます。

しかし、彼はとにかく笑い上戸で笑いだしたら止まらないほど明るい人だったそうです。そして、いたずら好きで誰に対しても優しかったと言われています。それに加えて、何でも吸収しようという意欲もすごかったようです。

「聖母戴冠」エル・グレコ プラド美術館蔵

昭和5年には、横山大観らと欧州に渡り、イタリア、フランス、イギリス、ドイツ、オランダ、そしてエジプトを周遊し帰国後、彼の技術はさらに洗練されていたといいます。特にスペインの画家エル・グレコの絵に強い興味を持ち彼に繋がる絵画の研究をしたようです。

常に妥協しない研究と努力の積み重ねをする速水御舟は、いつしか「天才画家」とよばれるようになります。しかし、速水御舟は、40歳の時に腸チフスが原因で亡くなります。彼の早すぎる死を多くの人が惜しみ悲しみました。

細密描写から量感重視、あらゆる面から観察し表現する思想を求めて出来上がった儚く美しい絵「炎舞」もまた、今も色褪せることなく多くの人から愛されています。

「炎舞」から続く名作

「花の傍」

「炎舞」を描き上げた後は、「昆虫二題」「樹木」「朝鮮牛」など数々の絵を生み出していますが、そのいずれも同じ技法、同じ表現にならないように描かれているといいます。まさに、速水御舟が天才画家である証です。

そして、いつも流行や風俗に敏感であったという速水御舟の言葉に「生活様式に重点を置くことは、すなわち社会とともに、あるいはそれ以上に発展し進歩する基調をなすものである。

新しき生命または様式もまさにそこからなるべきである」とあります。そのことがわかる絵が「花の傍(はなのかたわら)」です。この絵は、その当時の女性の姿を描き出しています。「花の傍」の大きな特徴は、縞模様の着物にあわせ周りの構成も縞模様になっていることです。

椅子、テーブルだけではなく、髪の毛も太い線で分けられ描かれているところに速水御舟の技が見えるようです。ぜひ、速水御舟の「炎舞」とその他の多くの名作を見る参考にしてみてください。

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『炎舞』の幻想的な美しさだけではない速水御舟のさまざまな絵の巧手をみる

「炎舞」重要文化財 山種美術館蔵

「炎舞」を描いた速水御舟は、早くに亡くなったため生涯で700点余りの作品しかないと言われています。そのうち、何点かは関東大震災などで焼失しているそうです。「炎舞」は、奇跡的に焼失することなく現存した貴重な作品です。ここでは、「炎舞」についてさらに詳しくご紹介していきます。

速水御舟の「炎舞」残された絵画

「山種美術館」

速水御舟は、40歳という若さで亡くなったため、その作品はなかなか人々の目の前にでてくることがありませんでした。それは、速水御舟の義兄であった吉田幸三郎が彼の作品を大事に保管し、中途半端な展覧会や画集への許可をしなかったためとも言われています。

それだけ、御舟への思い入れが強かったのかもれません。その他の人物でも御舟の作品を集めていたのが演劇演出家の武智鐵二(たけちてつじ)だったといいます。しかし、戦後手放さなければいけなくなりそこから、彼の集めていた御舟作品もバラバラになってしまったそうです。

その後、日本を代表する総合商社であった安宅産業の会長安宅英一がバラバラになった速水御舟の作品を20年かけて約100点余り集めたといいます。しかし、安宅産業は、1975年カナダの石油精製プロジェクトが失敗したことがきっかけとなり、次第に経営破綻へ追い込まれてしまいます。

その後は、伊藤忠商事に吸収合併されたのですが、速水御舟の作品も危機にさらされることになると、安宅産業の当時の債権者であった住友銀行が山種美術館の山崎富治郎館長のもとに御舟の作品を20億円で引き受けてもらえないかという相談をしたといいます。

山種美術館は、銀行からの借り入れなしに所有していた土地、有価証券を売却し17億円で速水御舟の作品を買い取りました。この出来事は、当時大きく新聞などでも取り上げられたそうです。

速水御舟作品は、山種美術館の代表的なコレクションとなり今日に至っています。そして、速水御舟の「炎舞」は、美しく見る人の心を惹きつける作品として知られるようになりました。  

「炎舞」を描いた速水御舟の心理に迫る

「炎舞」重要文化財 山種美術館蔵

「炎舞」は、大正14年(1925年)速水御舟31歳のときの作品です。最初この「炎舞」のタイトルは、「無蛾」という題にするつもりだったといいます。絵を描き始めた当初は蛾にもう少し主点をあてるつもりだったようです。

速水御舟に「あの画題は何か意味がありますか?」という内容の質問があった時、彼は「別に理由はありません。ただ観ただけです。炎を描いてみたいと思ったひとつの習作みたいなものです」と答えたといいます。

御舟は、様々に変化する炎の様子を繰り返し観察し、炎の本質を捉えていきました。背景に広がる闇の色は「もう一度描けといわれても、二度とは出せない色」と義兄であった吉田幸三郎に語っていたそうです。炎が宗教的でありながら写実的な表現装飾が美しいと言われています。

速水御舟の言葉に「私はかつて宗教的概念からヒントを得て、その神秘性を絵画に表現すべく随分モチーフ(芸術表現をする動機)を尋ねまわったことがあった。(中略)しかし、自分が求めたような自然の秘奥にある無限の深さをもった美は把握できなかった。

それから数年後に一つの花を写生し克明(細かいところまで実直にする)にしてみて、はじめてかかる微少なものにさえ深い美が蔵されていることを発見しひそかに感嘆した。実に絵画こそは、概念からいづるものにあらずして、認識の深奥から情熱が燃え上がって、はじめてつくり得られる永遠に美しき生命の花であろう」とあります。

「粧蛾舞戯」(昆虫二題之内)山種美術館蔵

「炎舞」は、まさに炎の舞が美しくこの絵の主役になり蛾が脇役になっています。その後、蛾が主役になる「粧蛾舞戯(しょうがぶぎ)」という作品を残しています。円の中心へ近づいていく構成で描かれた蛾の群れ。御舟作品の中には、蝉の抜け殻や毛虫などを観察し絵にしているものもあります。御舟は、虫を用いて生存競争を絵にしていたのではないかと言われています。

「炎舞」のような動きがある絵と動きのない絵

「翠苔緑芝」山種美術館蔵

「炎舞」の炎の動きが見えてくる絵とは違い動きが見えてこない絵が「翠苔緑芝(すいたいりょくし)」です。この絵は、昭和3年(1928年)御舟34歳の時に描かれた絵になります。4曲1双の金屏風に紫陽花、びわ、兎、猫、苔、芝が描かれた不思議な作品です。

西洋画と東洋画の接点から生まれたような絵とも言われています。兎を睨んでいるようにも見える猫におかしなポーズの兎が描かれていますが、そこに動きを感じさせる要素はなくまさに「静止画」です。

無限の広がりをもたせるために背景を描かない日本画独特の手法で金箔に対象物だけを描き立体感をもたせています。この作品は、御舟のチャレンジ的な要素が強くそのチャレンジに見事成功した作品としても知られています。

御舟は「後世、作家としての自分が忘れ去られても、この絵は面白い絵だといってくれるだろう」と言っていたそうです。速水御舟は、「作風がどんどん変化していく画家」とも言われていました。つねに奮闘し同じ作品を作らないという思いがあったのです。

「梯子の頂上に登る勇気は貴い。さらにそこから降りて来て、再び登り返す勇気を持つものは、さらに貴い。たいていは、一度登ればそこで安心してしまう。そこで腰をすえてしまう者が多い。登り得る勇気を持つものよりも、さらに降り得る勇気を持つ者は、真に強い力の把持者(しっかり持つ者)である」

さらに「技法の究極は無色透明だと思う。いささかでも多色があれば自己の真意を伝えるのにわざわいとなる。われわれ画道の学徒は種々の技法を習得し、そうして次第に脱落させ-無色透明にかえったとき、技法の真諦(究極の真理)に逢着する(行きあたる)」という速水御舟の有名な言葉があります。

同じ絵、同じ技法で描かれた作品がないとまで言われていた速水御舟の妥協のない努力や強い意思が彼の言葉からも見えてくるのではないでしょうか。努力は必ず実を結んでいくまさに「愚公移山(ぐこういざん)」の塾語が当てはまるようです。
速水御舟という画家が描く絵の魅力とともに彼自身の魅力が今なお色褪せることのない人気に繋がっています。

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