日本史

小早川秀秋の優柔不断に一喜一憂する家康

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はじめに

一日のたった4時間のうちに、身分の高い人から低い人まで、これほど一喜一憂、やきもきさせた人は珍しいのではないでしょうか。
天下分け目の関ヶ原の合戦にて、徳川家康率いる東軍を圧勝に導き、片や「豊臣の裏切り者」「裏切り金吾」として嫌われ続けた、戦国武将・小早川秀秋についてご紹介したいと思います。

小早川秀秋は万人が認める秀吉の跡取り候補だった

小早川秀秋は、世が世ならば豊臣家の主として大坂城に君臨していたかもしれない家系だったということは、歴史に詳しくない人にはあまり知られていないことです。

彼の実父は、太閤秀吉の妻・ねねの兄である木下家定でした。その5男として生を受けた金吾(秀秋の幼名)は、3歳でねねの養子となります。

ねねにおむつの世話をされながら育った彼は、常に人材不足だった秀吉家の秘蔵っ子として大切に養育され、また秀吉傘下の武将たちも、いずれ秀吉の跡取りとなる人物として接していました。

7歳の頃には、聚楽第へ後陽成天皇行幸の際、諸侯がしたためた「関白への忠誠を誓う」という誓紙の宛名が秀秋だったことからも、その権勢はうかがえます。

ここまでは、秀秋の人生は順風満帆だったのかもしれません。

やがて、秀吉に嫡子・秀頼が生まれたことで、秀秋の人生全てに及んだ一喜一憂生活が幕を開けます。

秀吉の裏切り、降格、そして…

秀秋が13歳の時、秀吉に嫡子・鶴松(秀頼の幼名)が生まれたことで、手のひらを返したような秀吉の粛清が始まります。

鶴松が豊臣の後継者となるために、年老いた自分の死後に秀頼のライバルとなりそうな存在を、周囲の視線も省みずに排除するようになりました。

秀吉の養子であり、すでに関白となっていた秀次の跡継ぎとして養育されていた秀秋は、最初は毛利家に養子に出される予定だったところを拒否され、智謀の将と名高い小早川隆景の養子として、豊臣一族から並程度の大名に降格させられたのです。

その翌年、ついに関白秀次に粛清の手が及び、謀反の角で高野山で切腹させられ、一族郎党は三条河原で処刑されてしまいました。

秀次粛清の余波を受け、無関係の秀秋も所領であった丹波亀山城を取り上げられ、筑前名島30万7千石の領地へと下ることとなりました。

小早川秀秋はどれほど辛かったことでしょう。

自らの器量とは関係のないところで、権力闘争が渦を巻き、一喜一憂しながら進んだ道は、生まれ育った京都から遠く離れた地の領主となり、毛利の力を借りて、自分を排除した豊臣の幼い後継者を守れという、非情で孤独なものでした。

15歳の朝鮮出兵の折には、特別の失敗もないのに理不尽にも領地を半減・転封の憂き目にあい、越前15万石の主となってしまいました。

一喜一憂どころか、憂いばかりが募っていきます。

徳川のとりなしが、関ヶ原の裏切りに繋がる

小早川家に仕えた旧来の家臣は、小早川隆景の隠居とともに城を出ていましたから、今や小早川秀秋の周りには、徳川家康と通じる稲葉正成や平岡頼勝が固めています。

しかし、秀秋にとって、やはり豊臣は自分のルーツでした。

後継者候補として崇められてきた思い出や、秀吉への恩に報いたいという心も残っていたことでしょう。

そして何より、「裏切り者」と呼ばれることは避けたいところです。

東軍の徳川家康も、西軍の石田三成も、彼という存在が他の武将にどれほど影響力があるかを知っています。1万5000もの兵を持つ小早川家当主を味方にしようと、領地の加増や関白の座などをちらつかせます。

秀秋にとって、どちらについても損のない状態です。

南から関ヶ原を一望できる松尾山に陣を置いた秀秋は、そのまま動かずジッとしています。

家康からは再三にわたり、「東軍に寝返れ」と使者がやってきます。

朝8時に開戦した関ヶ原の戦いは、東西両軍互角のまま4時間が経過しました。しかし、1万5000もの兵力を持つ小早川軍は動きません。

一喜一憂していたのは徳川家康も、石田三成も同じでした。

石田三成はせかすように狼煙をあげたのですが、秀秋にはすげなく無視されます。

徳川家康もついに鉄砲を松尾山に打ち込み、切迫した状態を示しました。

その時、ようやく小早川軍が動きを見せました。両軍ともに疲弊していたところに、無傷の1万5000に及ぶ大軍が突入したのです。

小早川軍は、自軍の近くに陣をはっていた西軍・大谷吉継軍に攻め入りました。

これを見た諸将もまた呼応するように寝返り、大谷軍を追い詰め、打ち果たします。

これをきっかけで東軍優位となり、関ヶ原の戦いはわずか半日ほどで終了し、徳川家康の天下が確定したことを、世に見せ付けました。

「裏切り金吾」の名に苦しむ小早川秀秋

「旧恩ある豊臣家を裏切り、徳川に寝返った男」として、小早川秀秋はまるで裏切りの代名詞のように忌み嫌われて語られるようになりました。

豊臣一族の陰謀や、秀吉の心移りによって一喜一憂し、体を壊すほど酒に逃避していた彼の心中など知る由も無く、「戦いの最中で敵方に寝返った男」として非難を浴びせられた秀秋は、備前・美作51万石の大大名となった後、わずか2年で体を壊し、1602年に20歳の若さで世を去りました。

跡継ぎがなかった小早川家もまた断絶、改易となってしまったのです。

まとめ

いかがでしたか?
天下人となる家の養子となったことで、常に他人の一挙手一投足に気を配り、その機嫌の良し悪しに一喜一憂した幼少時代を過ごし、突然その義父から敵対視されて一族から追い払われた悲しい武将の一生でした。

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