日本史

小早川秀秋の優柔不断に一喜一憂する家康

2017-11-17

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一日のたった4時間のうちに、身分の高い人から低い人まで、これほど一喜一憂、やきもきさせた人は珍しいのではないでしょうか。
天下分け目の関ヶ原の合戦にて、徳川家康率いる東軍を圧勝に導き、片や「豊臣の裏切り者」「裏切り金吾」として嫌われ続けた、戦国武将・小早川秀秋についてご紹介したいと思います。

小早川秀秋は万人が認める秀吉の跡取り候補だった

小早川秀秋は、世が世ならば豊臣家の主として大坂城に君臨していたかもしれない家系だったということは、歴史に詳しくない人にはあまり知られていないことです。

彼の実父は、太閤秀吉の妻・ねねの兄である木下家定でした。その5男として生を受けた金吾(秀秋の幼名)は、3歳でねねの養子となります。

ねねにおむつの世話をされながら育った彼は、常に人材不足だった秀吉家の秘蔵っ子として大切に養育され、また秀吉傘下の武将たちも、いずれ秀吉の跡取りとなる人物として接していました。

7歳の頃には、聚楽第へ後陽成天皇行幸の際、諸侯がしたためた「関白への忠誠を誓う」という誓紙の宛名が秀秋だったことからも、その権勢はうかがえます。

ここまでは、秀秋の人生は順風満帆だったのかもしれません。

やがて、秀吉に嫡子・秀頼が生まれたことで、秀秋の人生全てに及んだ一喜一憂生活が幕を開けます。

秀吉の裏切り、降格、そして…

秀秋が13歳の時、秀吉に嫡子・鶴松(秀頼の幼名)が生まれたことで、手のひらを返したような秀吉の粛清が始まります。

鶴松が豊臣の後継者となるために、年老いた自分の死後に秀頼のライバルとなりそうな存在を、周囲の視線も省みずに排除するようになりました。

秀吉の養子であり、すでに関白となっていた秀次の跡継ぎとして養育されていた秀秋は、最初は毛利家に養子に出される予定だったところを拒否され、智謀の将と名高い小早川隆景の養子として、豊臣一族から並程度の大名に降格させられたのです。

その翌年、ついに関白秀次に粛清の手が及び、謀反の角で高野山で切腹させられ、一族郎党は三条河原で処刑されてしまいました。

秀次粛清の余波を受け、無関係の秀秋も所領であった丹波亀山城を取り上げられ、筑前名島30万7千石の領地へと下ることとなりました。

小早川秀秋はどれほど辛かったことでしょう。

自らの器量とは関係のないところで、権力闘争が渦を巻き、一喜一憂しながら進んだ道は、生まれ育った京都から遠く離れた地の領主となり、毛利の力を借りて、自分を排除した豊臣の幼い後継者を守れという、非情で孤独なものでした。

15歳の朝鮮出兵の折には、特別の失敗もないのに理不尽にも領地を半減・転封の憂き目にあい、越前15万石の主となってしまいました。

一喜一憂どころか、憂いばかりが募っていきます。

徳川のとりなしが、関ヶ原の裏切りに繋がる

小早川家に仕えた旧来の家臣は、小早川隆景の隠居とともに城を出ていましたから、今や小早川秀秋の周りには、徳川家康と通じる稲葉正成や平岡頼勝が固めています。

しかし、秀秋にとって、やはり豊臣は自分のルーツでした。

後継者候補として崇められてきた思い出や、秀吉への恩に報いたいという心も残っていたことでしょう。

そして何より、「裏切り者」と呼ばれることは避けたいところです。

東軍の徳川家康も、西軍の石田三成も、彼という存在が他の武将にどれほど影響力があるかを知っています。1万5000もの兵を持つ小早川家当主を味方にしようと、領地の加増や関白の座などをちらつかせます。

秀秋にとって、どちらについても損のない状態です。

南から関ヶ原を一望できる松尾山に陣を置いた秀秋は、そのまま動かずジッとしています。

家康からは再三にわたり、「東軍に寝返れ」と使者がやってきます。

朝8時に開戦した関ヶ原の戦いは、東西両軍互角のまま4時間が経過しました。しかし、1万5000もの兵力を持つ小早川軍は動きません。

一喜一憂していたのは徳川家康も、石田三成も同じでした。

石田三成はせかすように狼煙をあげたのですが、秀秋にはすげなく無視されます。

徳川家康もついに鉄砲を松尾山に打ち込み、切迫した状態を示しました。

その時、ようやく小早川軍が動きを見せました。両軍ともに疲弊していたところに、無傷の1万5000に及ぶ大軍が突入したのです。

小早川軍は、自軍の近くに陣をはっていた西軍・大谷吉継軍に攻め入りました。

これを見た諸将もまた呼応するように寝返り、大谷軍を追い詰め、打ち果たします。

これをきっかけで東軍優位となり、関ヶ原の戦いはわずか半日ほどで終了し、徳川家康の天下が確定したことを、世に見せ付けました。

「裏切り金吾」の名に苦しむ小早川秀秋

「旧恩ある豊臣家を裏切り、徳川に寝返った男」として、小早川秀秋はまるで裏切りの代名詞のように忌み嫌われて語られるようになりました。

豊臣一族の陰謀や、秀吉の心移りによって一喜一憂し、体を壊すほど酒に逃避していた彼の心中など知る由も無く、「戦いの最中で敵方に寝返った男」として非難を浴びせられた秀秋は、備前・美作51万石の大大名となった後、わずか2年で体を壊し、1602年に20歳の若さで世を去りました。

跡継ぎがなかった小早川家もまた断絶、改易となってしまったのです。

まとめ

いかがでしたか?
天下人となる家の養子となったことで、常に他人の一挙手一投足に気を配り、その機嫌の良し悪しに一喜一憂した幼少時代を過ごし、突然その義父から敵対視されて一族から追い払われた悲しい武将の一生でした。

小早川秀秋 金吾中納言の意味とは

天正10年(1582年)に生まれた秀秋は、秀吉の養子になったこともあり、わずか10歳にして「金吾中納言」殿と呼ばれるようになっていました。

ではこの「金吾中納言(きんごちゅうなごん)」という名前はどこからきたのか。

中納言は官位の中の「従三位(じゅさんみ)」の一つでありますが、金吾はありません。

実は金吾とは「左衛門督(さえもんのかみ)」という官位も兼任していたことから呼ばれた名前だったのです。

朝廷から賜る官位は元々、中国で使われていた役職を日本に合う様に変えて使用したのが始まりでした。

では左衛門督は何の役職であったのか。

金吾は中国では「執金吾(しっきんご)」と呼ばれていました。

執金吾という役職は、中国の前漢時代に定められた、一軍を統率して都の巡察や警備を司った役職で、後に後漢王朝を樹立する光武帝劉秀をもってして、「仕官するなら執金吾、嫁を娶らば陰麗華」と言わしめました。

執金吾の制服は華美で美しいことから憧れ、陰麗華(いんれいか)という女性は、当時劉秀(りゅうしゅう)が住んでいた南陽地方一の美人でした。

陰麗華のほうは後に劉秀の皇后となります。

これが日本では左衛門督と名前を変えて定着するようになります。

左衛門督と対称に右衛門督(うえもんのかみ)も存在しますが、日本の官位では右より左の方が上位です。

それなら左衛門督も中納言と同じで「従三位」なのだろうと思ったらそうではありません。

左衛門督は位階だけで言えば「従四位下」に過ぎません。

これでも充分凄いのですが、兼任している中納言の官位の方が位が上のため、正式には「従三位 権中納言権左衛門督(じゅさんみ ごんちゅうなごんけんさえもんのかみ)」と呼ばれます。

これが略されて「金吾中納言」と呼ばれていたのです。

関ヶ原で秀秋が西軍を裏切った際の、大谷吉継や宇喜多秀家の「おのれ金吾!裏切ったか!」という怒声が想像できてしまいます。

小早川秀秋 朝鮮出兵後の没落と復活

慶長2年(1597年)、秀秋は秀吉の命で日本軍の総大将として朝鮮半島に出兵しました。

この時、日本軍の占領下にあった蔚山(ウルサン)城を加藤清正が1万ほどの兵で守備していました。

しかしそこに朝鮮・明連合軍が蔚山城奪還のため5万の兵で進軍してきます。

もはやこれまでというその時、日本軍の救援が到着しますが、何とその中には総大将である秀秋の姿もありました。

初陣だった秀秋は福島正則も閉口するほどの活躍と残虐ぶりを見せ付けます。

大活躍でしたが、総大将としてはあまりにも軽薄なこの行為を、軍監であった三成は秀吉に全て報告しました。

怒った秀吉は甥である秀秋に責任を取らせる形で、筑前名島30万7000石から越前北ノ庄15万石に減封してしまいました。

活躍したと思っていた秀秋でしたが、まさかの厳罰に納得がいかない秀秋。

そんな中、秀吉は慶長3年(1598年)3月に亡くなってしまいます。

代わりに台頭してきたのが、故・織田信長の盟友であり、小牧・長久手の戦にて秀吉を追い込んだこともある、五大老筆頭の徳川家康でした。

減封されたとはいえ、巨大な後ろ盾を失った秀秋はこう思ったことでしょう。

全く自分と関係がない家康が実力者となってしまっては、もはや表舞台に返り咲くことは無いだろう…。

そう思っていた秀秋に対して家康は全く予想もしていなかったサプライズをしてくれました。

何と召し上げられた旧領を返してくれただけではなく大幅に加増してくれたのです。

その所領は、かつての筑前名島30万7000石の倍近くある59万石にまで膨れ上がりました。

勝手に知行を宛がった家康に対して、豊臣家に背く行為と糾弾する三成でしたが、家康に対して大恩ができてしまった秀秋は関ヶ原で苦悩することになるのです。

小早川秀秋 違い鎌の旗印の謎

慶長5年(1600年)9月15日、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が関ヶ原にて激突しました。後世でいう関ヶ原の戦いです。

そこに秀秋は小早川軍1万5000もの大軍を率いて松尾山に陣を張りました。

関ヶ原合戦屏風では「白地に黒の違い鎌」の旗印が隆々と翻っています。

「白地に黒の違い鎌」こそが小早川家の旗だと考える方も多いでしょう。

しかし実は「白地に黒の違い鎌」の旗の現物は発見されていないのです。

そして小早川軍は「白地に黒の違い鎌」の旗印だったという文書による裏付けもないのです。

ではどこから「白地に黒の違い鎌」の旗印が生まれたのでしょうか。

それは関ヶ原の戦いの際に秀秋が着用していた陣羽織から生まれたのではないかといわれています。

秀秋着用の陣羽織はちゃんと現物が残っており、真紅の陣羽織の後ろには「白地に黒の違い鎌」の家紋がどんとあしらわれています。

秀秋の寝返りが関ヶ原の戦いのターニングポイントであったことから、この陣羽織の家紋イコール小早川家の旗印だとしてインパクトもあり、関ヶ原合戦屏風には描かれているのではないかと思います。

では本当の小早川家の旗印とは何だったのでしょうか。

それは秀秋の養父である毛利家の家臣であり、毛利両川として毛利家の屋台骨を担っていた名将・小早川隆景の時から使われている「左三つ巴」という印でした。

「左三つ巴」の旗印の下、関ヶ原で奮戦した小早川軍でしたが、戦からわずか2年後の慶長7年(1602年)に秀秋が跡取りを残せずに21歳の若さで亡くなってしまったため、旗印もろとも小早川家は断絶されてしまったのです。

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