日本史

明治維新の軌道修正を願った西郷隆盛

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はじめに

明治維新の功労者の一人である西郷隆盛は、その生涯をかけて日本という国の軌道修正を願い、願うのみならず自らの全知全能をかけて戦い続けた人でした。
今回は、明治維新政府の進める改革に、「人道」という軌道修正を、命をかけて問い続けた西郷隆盛をご紹介します。

幕末、西郷隆盛は何をした?

西郷隆盛の人物評として有名なのは、坂本竜馬が西郷隆盛の初対面を経て語った「大きくたたけば大きくこたえ、小さくたたけば小さくこたえる、つりがねのようだ」という言葉です。

彼と対峙する相手の能力に応えることができる懐の深さ、彼自身の能力の高さを表現する言葉ではないでしょうか。

欧米列強が隣国・清を植民地化する過程をつぶさに見ており、近海に出現する欧米の軍艦や漁船などで国家の危機を肌に感じてきた薩長方は、欧米相手にその場しのぎのひ弱な政策しか行えない徳川幕府を見限り、強い日本を天皇中心に新しく作ることを決断しました。

そしてついに、およそ260年つづいた江戸幕府を「大政奉還」で終幕させたものの、政権を朝廷に返上したことで徳川家を潰す大義はなくなり、未だ強大な権力と支持層に分厚く守られている徳川家の力をどう削り取るか、思案を続けていました。

実際、日本の舵取りを長年やってきた幕府とは違い、急に政権をまるごと返された形の朝廷には、国家を導くスキルはありません。実質的には、旧幕臣が徳川派の天皇の近くに侍る公家らを駆使して政治を取り仕切る必要がありました。

内実ともに「大政奉還」を成し遂げようと、まず朝廷内部に残る親幕派を締め出すために、西郷は1867年に京都御所宮門を薩摩藩の兵士で固め、徳川派の会津藩・桑名藩を追い払いました。

そして「王政復古の大号令」を宣言することで、明治天皇のブレーンを反徳川派中心に一新したのです。

さらに、徳川家を滅亡させて後顧の憂いを絶ちたい新政府軍は、1868年に徳川軍と京都の鳥羽・伏見で戦いの火蓋を落としました。戊辰戦争の始まりです。

旧幕府軍の前に掲げられたのは「錦の御旗」でした。その瞬間、旧幕府軍は天皇に弓引く逆賊となり、対して天皇を守る官軍となった新政府軍に叩きのめされ、わずか数日間で総崩れとなりました。

江戸城総攻撃によって徳川家滅亡を仕上げようとする新政府軍に対し、旧幕臣の勝海舟は、江戸高輪にある薩摩藩邸にて西郷と会談を行いました。

もとは隣国・清と同様に日本が欧米列強の餌食とならないよう、強い日本を作るための新政府樹立が目的であり、江戸を火の海にし、旗本たちの強い抵抗を長引かせている間に欧米列強が干渉してくる可能性を指摘された西郷は、江戸城無血開城を飲んだのです。

これを最後の仕事として、西郷は故郷・鹿児島に戻り、新政府軍による「明治維新」のメンバーには加わらずにいました。

西郷隆盛と維新政府のズレ

西郷隆盛が去った後、新政府メンバーは着々と中央集権国家への道筋を作っていたのですが、「版籍奉還」という大名の所有してきた土地と人民を天皇に返還するという大改革を経てもなお、未だ地元の知藩事として政治的発言権の残った元大名(華族)の力は強く、それにどう新政府が立ち向かうか苦慮が続きました。

そして1871年に西郷は新政府要職たちに招かれ、新政府に加わり、朝廷独自の親衛隊「御親兵」を組織しました。

新しい秩序から置き去りにされた士族の怨嗟を国外に向けようと、朝鮮出兵を提案する西郷・板垣らに対し、かつて幕府が締結した不平等条約改正の準備や欧米列強の視察などを目的に欧米から帰還した大久保ら岩倉使節団は、「今は国内軍備と財政再建をなすべき」と出兵を拒絶し、天皇も合意したので、西郷ら征韓派は新政府要職を辞任する道を選びました。(1873年明治六年の政変)

なぜ西南戦争は起こったか

明治維新後、士族は「廃刀令」で刀を取り上げられ、「金禄公債証書」の発行で収入を失い、武士の誇りを踏みにじられたまま農業や商業で身を立てることを急かされていました。

富国強兵を願い、西欧化への急速な道筋を立てるために、新政府は国民の心を省みず、彼らから様々なものを取り上げ、失った尊厳への空白を補うことは後回しにしてきました。

日本各地で士族の反乱が続発していた時、ついに鹿児島でも私学生たちが政府の火薬庫を襲撃する事件が起こってしまったのです。

当時、日本で唯一の陸軍大将であった西郷は鹿児島にいました。

私学生たちの怒りや悲しみは、西郷の心に深く響きました。

そして1877年、新政府軍の実力や最新鋭の軍備を知りながらもなお、西郷は私学生たちとともに挙兵を決意したのです。西南戦争が始まりました。

維新のやり直しを求める声が西郷を動かした

およそ13000人の士族・私学党隊を率いて鹿児島から挙兵した西郷は、熊本鎮台のある熊本城で政府軍と激突しました。しかしみるみるうちに敗戦濃厚となり、田原坂で政府軍に圧された後は、各地を転戦することになりました。

9月、城山に立てこもって400人ほどの士族・私学党隊とともに戦うも、西郷は銃撃されて倒れ、自決を選びました。

西郷には「著書」と呼ばれるものは残しませんでした。その代わり、旧出羽庄内藩の人々が彼の言葉を後に集めた『南洲翁遺訓』が残されています。
西郷が、後世の人々に「西郷陸軍大将」という呼び名ではなく、「西郷どん」「西郷さん」と親しげに呼ばれる意味が分かる書籍です。

明治維新は、欧米列強の脅威から人民を守るために始めた改革でした。

いつの頃からか、富国強兵にまい進するあまり、国民を疲弊させる道を選んでいた政府に対し、軌道修正を願っていた西郷の気持ちが伝わります。
「国民一人ひとりの自由や権利がないがしろにされたまま、急ごしらえの西洋化では国民は幸せになれない。」
「日本人の本来の良さを失う形で、文明開化の外側だけ作ることに意味はない。」
西南戦争で西郷が命を落とした後、大久保利通は「西郷の気持ちが分かるのは俺だけだ」と語っていたそうです。

まとめ

いかがでしたか?
今、欧米諸国に日本文化が改めて注目されています。それは着物や忍者といったキャッチーな装束やキャラクターだけに留まらず、武士道や禅、おもてなしの心といった、日本民族が古くから伝えてきたカルチャーです。

明治維新によって急速に再構築される新しい日本の在り方を軌道修正して、古くから大切にされてきた日本の美徳や精神が振り落とされないよう、西郷は西南戦争にて、身を持って警鐘を鳴らしたのです。

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