日本史

権力闘争の認識が違った頼朝と義経の悲劇

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はじめに

平安時代後期の関東武士にとって、源氏は特別な血脈でした。

朝廷の威を借りた地方の国司たちは、都の監視の目が行き届かないことをいいことに、民衆の生活を省みずに税を徴収し、その多くを自分の懐に入れて私腹を肥やしていました。

平将門の乱」の後に起こった「藤原純友の乱」を平定した源頼信の名声は、朝廷に見捨てられて混乱する関東武士の間で響き渡り、それが「源氏は特別」という共通意識に繋がったのです。

そんな関東武士から支持を集めた源頼朝と義経、この二人はなぜ対立することになったのでしょう?

それは、この「関東武士が源氏の子に向ける目」に対する認識の違いにあったのではないでしょうか。

源頼朝と義経は最初から仲が悪かった?

父・源義朝が「平治の乱」で討たれた後に捕縛され、平清盛によって伊豆の蛭ヶ小島へと流罪にされました。平氏との縁の深い関東武士団であった北条家の監視下で20年を過ごすうちに、朝廷権力の衰退と、平氏に蝕まれる貴族階級の不甲斐なさ、そして地方国司の堕落した行政に嫌気がさし、失望感が源氏への期待感へとスライドしていったのです。

伊豆に流されてきた当初は、いつ殺されてもおかしくない大罪人だった源頼朝でしたが、「源氏の棟梁なら関東武士のピンチを救ってくれる」という期待感の高まりによって、最終的には北条家の棟梁娘・政子の婿の立場で率いる北条武士団とともに出陣することになりました。

後白河法皇の第三皇子・以仁王の令旨に応じて挙兵した平氏討伐軍は、伊豆のみならず、関東近辺のあちこちから挙兵されました。

都で育ち、奥州平泉にて武家の作法を学んだ源義経もその一人でした。

頼朝と血を分けた兄弟だったものの、大軍を統率して平氏討伐を立案・実行する将軍の立場からすれば、例え弟であれ義経は有能な将軍の一人に過ぎません。

大将たる頼朝がそのような立場を取るなら、周囲の者の認識も、おのずとそうなるものです。

しかし、奥州藤原氏に「源氏の棟梁たる血の尊さ」を叩き込まれたであろう義経自身の認識とはズレが生じていたようです。

義経になぜ頼朝は怒ったのか

北条一族もそうであったように、奥州藤原一族もまた、関東平野の勢力争いを一族にとって有利なものにするために、以仁王の令旨を名目に挙兵したようなものでした。

つまり、源頼朝に求められていたのは、朝廷の威光を回復するのではなく、関東武士団にとって都合の良い統治システムを武力によって打ちたてることであり、彼はそれをよく認識していたようです。自らが朝廷の操り人形となることを上手く避けていました。

しかし、義経を盛りたてる立場の奥州藤原一族は、北条一族との勢力争いに勝利すべく、義経を使って朝廷と結びつく作戦を取りました。屋島・壇ノ浦の戦いにて華やかな武勲を挙げた義経の物語は、平氏の台頭を憎んでいた貴族たちにとって爽快すぎる物語であり、義経の人気はうなぎのぼりだったからです。

義経は頼朝に無断で、後白河法王から官位を授かりました。

義経自身は、源氏が朝廷から官位を授かればきっと頼朝も誉れ高く思い、喜んでくれるだろうと信じていたのでしょう。貴族のルールが敷かれた都育ちの義経にとって、これは断る理由のない、貴族の一階級下にいる武士の子にとっての最大の名誉でした。もちろん義経の後ろにいる奥州藤原氏にとっては、北条一族に対する強い牽制の意志がありました。

旧来の権力に従うか、それとも武士団という新たな勢力を基にした統治システムを打ちたてるか、その認識の違いが特に顕著になったのは、義経を討伐するために全国に守護・地頭を配置する許可を得た時でした。

義経にとっては、兄や源氏の名誉が全てだったかもしれません。

しかし、義経の認識では計り知れない統治者としての才覚でもって、頼朝はすでに、その次の武士の世代が生き易い統治システムの改革を始めていたのです。

貴族側の武士となり、関東武士団にとっては裏切り者にも等しい立場となった義経は、討伐軍に奥州まで追われ、最後は自害しました。

日本人は義経をなぜ庇う?

「源頼朝と義経、どちらが好き?」と質問されたら、あなたはどちらを選びますか?
「お兄さんに利用されて捨てられるなんて、可哀想!」という方も多いのではないでしょうか。
当時の歴史的事情をつぶさにチェックすれば、頼朝が為すべき役割の大きさや重さ、ひとつのミスが命取りになるサバイバルな環境が推測でき、「頼朝は仕方なかった」という気持ちも沸いてくるはずです。

そして、『平家物語』の平家びいきなストーリーが、日本人の義経好きに深く関わっているという点も見逃せません。

義経という希代の英雄が、才覚や名誉に相応しくない衣川で自害する運命が待ち受けている物悲しさは、現代人の心にも強く響きます。

まとめ

いかがでしたか?
源頼朝と義経の、源氏の棟梁息子という血に生まれ、共通の敵と戦いながら、なぜ両者の間に権力闘争が勃発し、やがて兄が弟に追討軍を差し向け、自害に追いやることになったのかを、両者の認識の違いから明らかにしていきました。

英雄は一人ではなれません。自分を取り囲む人々の欲や理想、それが生まれた背景を知った後に、最大公約数で願いを叶えるために、力をひとつに集める魅力を持つ個性が、英雄となるのです。

この認識こそ、兄頼朝にあり、弟義経になかったものなのかもしれません。

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