日本史

沢村栄治 日米から愛された不運のピッチャー

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はじめに

日本のプロ野球で活躍する投手、そして多くの野球ファンにとって特別な思いを持つ賞と言えば、「沢村賞」です。
「沢村賞」を受賞するには、どのような選考基準が設けられているか、改めてご紹介します。

1. 15勝以上
2. 25試合以上登板
3. 200イニング達成
4. 完投10以上
5. 奪三振150回以上
6. 勝率6割以上
7. 防御率2.50以下

なぜ、「沢村賞」はこれほど細かく厳しい基準が設けられているのでしょう?
それは「沢村」という日本プロ野球界にとって栄光の名前が起因しているのです。

沢村栄治とはどんな人物だった?

「沢村賞」を創設したのは、日本プロ野球リーグの創始者の代表的存在である正力松太郎です。

昭和10年代当時、学生野球を中心としたアマチュア野球は庶民にとって欠かせない娯楽のひとつでした。しかし、野球に対する大衆のイメージは、「学生の向学心を妨げる悪いファッションで、相手の失敗を願って勝つというマナーの悪い遊び」というものに過ぎませんでした。

当時、部数が低迷していた読売新聞の未来のために、社長の正力松太郎はその野球ブームを商業ベースに乗せ、会社を興隆させるべく勝負をしかけます。

アメリカ大リーグのスーパースターであるベーブ・ルースを来日させることを決意したのです。

当初は庶民に人気の学生野球のスターたちを集めて対戦させようとしたのですが、野球に熱を上げる学生と、金儲け主義に走る大人たちを切り離すべく、「野球統制令」が発令されました。

学生チームは職業で野球をやっているチーム(プロ野球)との試合が禁止されましたことで、正力松太郎他、アメリカ大リーグオールスターズとの交流戦をセッティングしていた人たちは、日本にプロ野球リーグを作る未来予想図を現実にするために急遽「オールジャパン」の野球チームを急ピッチで結成する必要が出てしまったのです。

そのオールジャパンチーム「全日本軍」のエースに抜擢されたのが、「沢村賞」のいわれとなる沢村栄治でした。

京都商業中学在学中の17歳ごろから、その類稀な重くてコントロールのいい投球スタイルは甲子園をどよめかせていました。

そんな学生野球のスター候補生である沢村の存在は、「全日本軍」に参加させるメンバーをスカウトしていたプロ野球創設者たちの耳にも届きました。

関係者の熱い説得と家庭の事情の両面から、野球の名門である慶応義塾大学に進学したいという夢を一旦脇に置いた沢村は、「野球統制令」に抵触しないよう、京都商業を中退し、貧しい実家の家計と兄弟の学費を稼ぐために「全日本軍」を経てプロ野球選手になる道を歩くことになりました。

日本のプライドを背負ってアメリカと戦う若きヒーロー、沢村

ベーブ・ルースらアメリカ大リーグオールスターズと全日本軍の親善試合に、日本は沸きました。日米対抗野球第10戦で先発した沢村の速球とコントロールの良さが、大リーガーたちのバットを沈黙させます。試合そのものは味方打線の援護がなく、アメリカ大リーグオールスターズに0-1で負けたのですが、ベーブ・ルースら本場の第一線のスターたちを相手に投球で圧倒していた17歳の少年沢村の名は、海外メディアを通してアメリカに知れ渡ることになりました。

アメリカ人が最初に覚えた日本人野球選手こそ、「サワムラ」なのです。

ベーブ・ルースもまた、「サワムラは大投手になる」とインタビューで語り、世界に太鼓判を押された形となりました。

「大日本東京野球倶楽部」(後の東京読売ジャイアンツ)が設立されたのは、この翌年でした。アメリカ大リーグに実力で追いつき、「紳士」として社会に認められる品性を持つことを目標にしたこの球団に、沢村は客を呼べる花形エースとして入団しました。

そして同じ年に渡米し、サンフランシスコ・メリーズビル球場にて行われた日米親善野球にて、サンフランシスコ・ミッションズを相手に沢村が登板しました。12−5で日本はアメリカの球団相手に念願の初勝利を挙げ、ピッチャー沢村の名は、戦争の影が色濃くなり排日政策の只中にいる在留日本人には栄光の象徴となり、アメリカ人にも人気者となりました。

4ヶ月に及ぶアメリカ転戦の中で、18歳になっていた沢村は現地の大リーグ球団のスカウトたちの標的にもなりながら、サワムラコールを浴びるスター投手に成長します。 沢村が登板するかしないかで客の入りが激変するので、連投が続き、疲労を若さで克服する彼の努力が、実を結びました。

昭和11年に5つのプロ野球球団が設立され、昭和10年12月にできた大阪タイガースも含めて7球団が揃い、国内プロ野球リーグの夢が叶ったのです。

しかし同年、2.26事件が勃発し、日本は世界大戦への道をひた走り続けていました。

日米に愛された不運のピッチャーの最期

沢村その他、各球団選手は、プロ野球の認知度を上げるためにハードな日程で国内外に遠征を重ねるのですが、戦争によって民衆の生活から金を払って野球を観にいく余裕は失われており、赤字が続いているなか、沢村は日本野球リーグ初記録のノーヒットノーランを達成します。

「日本野球リーグの顔」として一人でプロ野球の未来を背負わなければならない19歳の沢村率いる東京ジャイアンツは、「巨人軍は強くあれ。巨人軍は常に紳士たれ。」という正力の理想に適う形で、リーグ初優勝に輝きました。

昭和12年、その年のリーグから始まった「最高殊勲選手」には20歳の沢村が第一号として選ばれました。

20歳とは、国民の義務である兵役となる年でもあります。

昭和13年、沢村は歩兵第三十三連隊に入隊し、中国大陸へと向かいました。「巨人軍の沢村栄治が手榴弾を78メートル投げた」と新聞に報道されるのもこの頃です。

昭和15年に除隊し、結婚しました。しかし昭和16年での二度目の徴兵の際に南方へ送られ、昭和18年に除隊してからは、過酷過ぎる2度の軍隊生活とトレーニング不足から、投手として花盛りだった沢村は調子を大きく落とし、向かうところ敵なしだったピッチングは影を潜めます。

野球ファンは国民の誇りたる大投手が調子を落とし、黒星を重ねる姿に心を痛め、時にひどい罵声を浴びせました。勝てなくなった沢村は、人生を捧げた球団からも解雇され、軍需工場で働くことで生計を立てました。

そして昭和19年に三度目の召集令状が届きます。同年に各球団は戦争の統制の厳しさや多くの選手を兵隊に取られたことで続行不可能となり、解散を余儀なくされます。 沢村はフィリピンに向かう途中、魚雷にて戦死しました。27歳でした。

まとめ

アスリートの人生で、ピークを迎える年齢は限られています。
10代後半で世界トップレベルのメジャーリーガーが驚愕する才能を見せ付けた沢村は、20代を迎えるこれからというときに徴兵されたことで、鍛え上げられたアスリートとしての体がずたずたになってしまいました。
恵まれた体格と才能、努力を惜しまない心を野球界の記憶に残すために、「沢村賞」の資格は当初「沢村に匹敵する剛速球投手を表彰」という一文のみでした。
まさに生まれる時代が不運だったために、若くして散った日本の宝でした。

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