日本画

横山大観といえば『富士山』と言われる理由 彼の富士への信念に迫る

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「霊峰飛鶴(れいほうひかく)」

横山大観は日本美術史の中でも最高峰に位置すると言われている画家です。その大観の絵には富士山が多く描かれています。大観が描く富士山はただの描写ではなく見る人の心に残ると言われています。
富士山を多く描いた横山大観の信念とその魅力について詳しくご紹介していきます。

富士山とともに生きた横山大観の信念

「雲中富士」東京国立博物館蔵

「雲中富士」は、Googleの画面でも印象に残っている人が多いのではないでしょうか。大観の作品の中でもとてもシンプルな描き方をした富士作品です。横に広がりを見せていく雲海の上に少し雪が残る群青の富士山が現れています。
大観は東京美術学校の図案化の助教授を務めていました。「雲中富士」のデザイン的要素が強いのも図案と画を両方の技法を持ち合わせていた大観ならではといえます。
「雲中富士」のイメージとガラリと違うのが「霊峰飛鶴」です。

雪化粧をした美しい富士の山容に背後から瑞光が輝き金色の稜線を放っています。そこを鶴が連なるように列をなし飛んで行きます。この作品は先に富士山を描いた「心神」の構図によく似ているのですが、白銀の富士に瑞光が射しこんだ瞬間をとらえている点で『霊峰人格論』を強調した作品といえます。

大観は「伊豆の猿磨山から見た富士山が一番美しい。猿磨山から眺めると宝永山が隠れて完全に隠れた所のない富士山容となるから、人間も誰でも欠点がありそれを全てカバーする偉大さを見なくてはならない」と語っています。

霊峰富士は人格そのものであるから「富士山を描くということは富士にうつる自分の心を描くこと」と常々言っていたそうです。

専門家の中には「大観の富士がうまいというわけではないが、大観にしか描けない富士であって、なんど見ても飽きない。富士の絵が何かを語りかけてくるような感覚にさえなる」と言う人も多くいます。

それは、ただ見た風景をそのまま描いたのではなく、富士山の核心をつかんで自分のものにしてしまう大観だから出来る感性ともいわれています。大観の富士の絵は需要も多かったといいます。

大観自身「みなさんが富士、富士と言うものですから」と話しながら「富士を写すことはそこに自分の姿を描くことだ」と口癖のようにいつも言っていたそうです。さらに大観のおもしろいエピソードが残されています。

横山大観は富士の絵同様に人を惹きつける人物だった

「祝儀袋」

大観は、雪を描く時に観世縒(かんぜより)を束ねて胡粉をつけてパッパッとやってその後に「これ、絶対誰にも言うなよ」と言っていたそうです。(観世縒りはご祝儀袋などでも見られる和紙を束ねた紙縒りのこと)

そのほかにも雑巾を使って胡粉を塗ったり、指で描いたりしていたそうです。大観は大胆で思いついたらなんでもやってしまうので「大観先生に自分の店の筆を使ってほしくない。何をやるかわからない」と言った店主もいたのだとか。ところがそのうち「ぜひ、うちの筆を使って欲しい」という風に変わってくるという話も残されています。

横山大観

大観はなんの絵でも写生をしないで描く画家で写生を嫌っていたといわれています。しかし、「或る日の太平洋」(東京国立博物館蔵)の富士山が遠くに見え、下方向から大波があらゆるものを巻き込みながら空へ突き登りその中から龍が空高く舞い上がる有名な絵では、

構想と構成を何度も追求していたといいます。大観は、下書きのスケッチそのものを使っていないだけで、いきなり本番の絵を描いていくようなことをしなかっただけだったのです。

大観に「先生は、写生をされますか」と聞くと、「僕だって写生するさ。だけどそれをすぐに使わないよ。大抵1年は寝かしておく。写生そのまますぐ使うとどうも絵がゲスっぽくなる」(「大観」より)と答えています。

大観は、自然を見て画題を考えるのではなく、まず自分で考えたものを画題にし、何か認識不足になっているところだけ自然からとるようにしていたのです。認識不足で疑いが残ったままだと必ずやりそこねてしまうと考えていたといいます。

大観の作品は、見る人に何かを伝えてくるような感覚になるのは、彼の信念が一緒に描かれているからなのではないでしょうか。大観の人柄がよく見えるエピソードはこれだけではありません。

横山大観の東京駅の富士山

東京駅」

戦後、破壊されつくした線路に食糧難で体力、気力も弱っていた東京駅の職員達が必死で汽車を動かしていたといいます。職員たちは、無理難題を言う進駐軍の至上命令と第三国の無茶な要求に涙を拭っていたそうです。

そんな時、大観は東京駅の職員に「誇りを持って希望を抱きそして、正しい志操を失わないように」という思いの込もった富士山の絵を寄贈します。

「富士山」

この時の「富士に桜」の絵を実業家の五島慶太(東京急行電鉄の事実上の創業者)が「1億2千万円で譲って欲しい」と申し出ました。当時の国鉄の職員の初任給が1万円くらいだったので、1億2千万円は破格の金額です。

しかし、国鉄はこの申し出を断ります。それだけ、大観の絵は当時の職員の心の支えになっていたということです。

ところで、なぜ大観が自宅近くの上野駅ではなく東京駅に絵を寄贈したのかというと、昭和22年(1947年)日本は空襲の痛手がまだ多く残っていた頃、大観は熱海伊豆山に住み東京駅から熱海へ向かうところ、その日たまたま東海道線で事故があり東京駅は混雑していたそうです。大観もその人混みの中にいたのですが、駅員の誰かが大観に気づき日本画壇の最高峰の大観先生をあの人混みの中に立たせていては気の毒だと思い駅長室に案内したといいます。

駅長室といっても空襲の爪痕が残ったままの寂しい場所だったようです。大観はこの時の職員の好意が嬉しかったのか何もない駅長室を気の毒に感じたのかはっきりわかっていないのですが「自分の絵を駅長室に贈りましょう」という趣旨の話をします。

何ヶ月か経って本当に大観の絵が東京駅に届くと職員達は驚き、当時の駅長の天野駅長は、すぐに東京鉄道局に「横山大観先生から富士の絵が届きました」と報告します。この報告に東京鉄道局も驚き、すぐに運輸省に連絡を入れます。

すぐさま東京駅の駅長室で大観を招待しお礼の食事会を催すことになります。この席には、大観が中央に座りその前に佐藤栄作運輸次官(後の内閣総理大臣)、伊能鉄道総局長官(後の参議院議員)、下山東京鉄道局長(後の国鉄総裁)などそうそうたるメンバーがいました。

この時のメンバーの誰かが、大観が東京駅に贈った「富士に雲」の絵を将来は天皇皇后がご休息になる「松の間」に移しますという話をすると、大観は手を振って「あれは駅長室に飾ってもらうために描いた絵だから、そういうことならもう一枚描きましょう」と言い出します。

大観の言葉にその場にいた皆が顔を見合わせて驚いたそうです。「謝礼をさせて欲しい」と申し出ても一切謝礼を受け取ろうとしない大観に国鉄は、金粉入りのウイスキーを代わりに贈ります。

お酒好きの大観は、このウイスキーを喜んで受け取ってくれたそうです。昭和28年(1953)東京駅の貴賓室「松の間」が完成すると、約束通り大観はもう一枚の富士の絵「富士と桜」を届けます。この時も謝礼を受け取らない大観に後で清酒2本を届けたという話があります。

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