日本史

恐るべき大怨霊? 弱者を助けるヒーロー? 神秘のベールに包まれた平将門その素顔を探る!

2018-12-13

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誰もが一度は名前を聞いたことのある平将門。数多くの伝説があり、未だ解明されていない謎も多い人物です。
平治の乱を起こした謀反人ですが、武士の祖とも言われ英雄として語られたり、「帝都物語」では首都を滅ぼすほどの大怨霊として描かれますが、北斗七星の化身である妙見菩薩と同一と見なされたりと、人物像も曖昧です。
果たして平将門とはどんな人物なのでしょうか。探ってみましょう。

日本史の中の東国の位置付け

平将門についてみていく前に、彼の活躍した舞台である「東国」についてみてみましょう。歴史の中に登場する「関東」「東国」は、どのエリアを指すのでしょうか。「古事記」や「日本書紀」には日本武尊の蝦夷征討からの帰還神話に登場する「あづまはや」というフレーズから、碓氷坂以東の東山道諸国と足柄坂以東の東海道諸国を指して「吾妻」と呼んだのが関東地方の所以となります。

古代の中心だった機内地方の防御のために設けた三関(さんげん)のうち、鈴鹿・不破両関よりも東側の国々を「関東」もしくは「東国」と呼んでいました。もう一つの呼び方「坂東」は、足柄坂以東の東海道を指した坂東と、碓氷坂以東の東山道を指していた山東がいつしか一緒になり坂東と呼ばれるようになったようです。坂東にある国々「坂東諸国」が省略された呼び方が「東国」という説もあります。

中世に鎌倉幕府が興ると、朝廷側の「畿内近国・西国方」に対して、幕府を「関東方」と呼んだことから、幕府=関東であり幕府の支配地域を指す呼び名として用いられるようになります。エリアも広がり遠江国・信濃国・越後国より東を指して関東=東国となり、室町時代に入るとそれまでの坂東8カ国に伊豆国・甲斐国を加えた10カ国が、さらに14世紀に入ると陸奥国・出羽国を加えて関東と呼ばれるようになります。

平将門が活躍した時代の関東地方は「坂東八カ国」と呼ばれた相模・武蔵・安房・上総・下総・上野・下野の国々。現在の神奈川県・東京都・千葉県・茨城県・群馬県・栃木県と、ほぼ現在の関東地方と同様のエリアです。これに伊豆国と陸奥国が加わったエリアが、将門の活躍した舞台となります。

立場が変わると見方も変わる。謀反人なのに英雄な将門。

新皇を名乗り関東の国士を次々と配下におさめた将門は、藤原一族の摂関政治が隆盛を誇った当時の朝廷から見ると、朝廷を滅ぼしかねない脅威として映りました。一方の将門はというと、朝廷を倒そうと企てたのではないようです。藤原氏が牛耳っていた当時の政治は、収賄が横行しそれに与しないものは次々と失墜する時代で、公家の中にも藤原氏を憎いと思っている人々は少なからずいたようです。とはいえ、土地はすべて朝廷のものであるという公地制度が確立していたため、収賄のための財を成すためにはいわゆる脱税をしなければなりません。そのしわ寄せを食い、富を吸い上げられる側の庶民は、日々苦しい思いをしていました。

関東の大親分であった将門は、彼らから「どうにかしてほしい」と頼られる立場にあり、将門も頼まれたら一肌脱ぐ気性の持ち主だったようです。戦闘の末打ち負かした、いわば敵である国司の藤原玄明を、「助けてほしい」と言われ、かくまったという逸話が残っているように、「昨日の敵は今日の友」とでもいうような、男気のある振る舞いが多々見られます。新皇と名乗ったのも巫女の託宣を受けたのがそもそもの理由ですが、苦しい生活を強いられていた庶民の声を、巫女が将門に期待を込めて代弁したというのが本当でしょう。それを十分に分かっている将門も、素直に託宣を受け入れ新皇を名乗ったというのが真相で、朝廷を倒す意気込みを込めたものではないようです。

救世主を望む民衆の期待を背負った形で、将門は新皇を名乗り国府を落とし、関東地方を平定していきます。圧政に苦しんでいた民衆から見れば、苦しみから解き放ってくれた将門はヒーローに移ったことでしょう。藤原氏を疎んでいた一部の公家たちも、陰ながら喝采をあげていたかもしれません。しかし、自分たちが権力を掌握しているとはいえ、天皇を頂点に置くことを前提とした栄華のもとにある藤原氏にしてみれば、将門はいつ自分たちの足元をすくわれるかわからない、目の上のこぶでしかありません。国富は現在でいう県庁にあたるわけですから、それを襲った将門は事実的に謀反人でしかありません。このような二つの視点によって、弱者を助けるヒーロー像と、荒れ狂う悪人像とが生まれてきたようです。将門本人の人柄に迫ってみると、ヒーローとしての人物像の方がしっくりくるように思えてきます。

大怨霊であり妙見菩薩の化身である将門

平将門は北斗七星の化身である妙見菩薩の加護を受けて、関東を平定したと言われています。新皇を名乗ったのも、妙見菩薩の託宣を受けたことによるとされています。当時の民衆からしてみれば、次々と国富を打ち破り苦しい生活から解放していく将門は、まさに菩薩の姿そのものに映ったことでしょう。神の力が宿っていたどころではなく、将門=菩薩と捉えていても不思議ではありません。

一方、平将門は日本でも有数の怨霊としての側面も持っています。古来より日本では呪いに対し、非常に敏感でした。そのため敵として排除した人物でも、その魂を鎮め呪われないよう丁寧に祀る習慣がありました。神社はその魂を静めると同時に、呪いを封じ込める役割を果たすために使われてきたと言っても過言ではないでしょう。実際、将門には数々の伝説が残されていますが、その中に撃ち落とされた首がいつまでも口をきいたり、坂東まで飛んで帰ったりといった、恐ろしげな伝説も残っています。

出雲大社や太宰府天満宮のように、怨霊が強ければ強いほど、大きな神社で祀って諌めるのですが、将門については関東一円に彼ゆかりの神社が数多くあるものの、先の2つに比べると規模も大きくありません。神田明神は将門を祀った神社としても有名ですが、将門が祀られるようになったのは14世紀に入ってから。当時流行した疫病が将門の祟りによるものだと言われたことから祀られるようになりましたが、それまでは大己貴命を祀っていました。その後、一度摂社に降格され再び本社に帰ってきたのは、昭和59年になってからです。

将門の呪いについてはいろいろな逸話も残っていますが、後世の人々が将門に結びつけただけで、もしかしたらそれほど強い怨霊ではないのかもしれません。彼の人柄を思えば、「自分は負かされたけど、別に敵だからって恨んだりはしないよ。」という将門の言葉が聞こえてきそうです。むしろ、今でもみんなが楽しく暮らしているかどうか、北斗七星からいつも見守ってくれている姿が、思い浮かんできます。

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