日本史

脱げた靴が出会いのきっかけ?時代を変えた乙巳の変の立役者【中臣鎌足】と中大兄皇子

2017-12-15

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「かまたり」・・・一度聴いたら忘れられないその名前。誰もが一度は聞いたことのある【中臣鎌足】は飛鳥時代の豪族で、中大兄皇子と共に蘇我入鹿を討った、有名な「乙巳の変」を引き起こした人物です。

そんな、中臣鎌足を祭神としている談山神社が奈良にあります。桜と紅葉の美しい寺院として有名な奈良県観光スポットでもあります。今回は、乙巳の変で活躍した中臣鎌足が、中大兄皇子と出会ったきっかけと言われるエピソードや、「中臣鎌足」と「藤原鎌足」の違いなどをご紹介していきたいと思います。

おさらいしよう!乙巳の変と大化の改新

飛鳥時代に起こった事件の中でも群を抜いて血なまぐさいクーデター、乙巳の変。こともあろうか天皇の座す宮中で、当時大きな政治力を持っていた蘇我入鹿が襲撃され、死んでしまったのです。首謀者は皇太子の一人・中大兄皇子とその懐刀・中臣鎌足らでした。

乙巳の変に至る経緯として、通説とされているのは、次の通りです。

このころの朝廷の政治システムは、天皇はいるものの各豪族たちとの合議制のような形になっていました。富=力のある豪族はそれだけ朝廷における発言権も大きく、大豪族であった蘇我氏は天皇家をもしのぐ勢いで、かなりの専横ぶりだったと日本書紀は言います。そして決定的な事件がおきます。蘇我入鹿は、皇位継承をめぐって、聖徳太子の子で反蘇我勢力の皇太子・山背大兄王を一族もろとも襲撃、滅ぼしたのです。

蘇我氏の暴挙を憎んだのが、中臣鎌足でした。中臣家は朝廷の神祇をつかさどる家柄でしたが、政治に関心があったと見え、遣隋使小野妹子に同行し隋の進んだ文化や学問・思想などを日本に持ち帰った「南淵請安」の元にならい、大きな影響を受けたと言われています。豪族中心ではなく、天皇を中心とした国家作りこそ、中国に並ぶ大帝国になれる道だと確信した鎌足は、打倒蘇我氏を掲げ立ち上がりました。

鎌足が協力者として選んだのは、当時の皇極天皇の息子・中大兄皇子でした。古人大兄皇子を推し次期天皇にするために、優秀な皇位継承者の一人であった山背大兄王を討った蘇我氏が、次に狙うのは、おなじく皇位継承権のある中大兄皇子です。中大兄皇子の方も、打倒蘇我に協力する動機は十分にありました。また、この蘇我氏打倒計画にはもう1人キーパーソンがいます。蘇我倉山田石川麻呂という人物で蘇我氏の分家一族です。同じ蘇我一族とは言え、宗家ばかりが力を持っていたため分家の間では不満が広がっていました。蘇我倉山田石川麻呂の娘が中大兄皇子に嫁ぎ、同盟は確固たるものとなります。

そして、いよいよ、その時がやってきました。天皇や大臣などが一堂に集まる、三国の調という儀式の日が決行の日と決まりました。

朝廷内で蘇我入鹿を討った後、蘇我宗家にもクーデタ軍が襲い掛かります。

屋敷にいた入鹿の父親・蘇我蝦夷は追い詰められ、屋敷に火を放ち自害しました。

これが「乙巳の変」です。学生のころ歴史の教科書で習ったはずですが、「大化の改新」と習った人も多いと思います。しかし、「大化の改新」という表現は後世作られたものだそうで、現在では、このクーデターを乙巳の変、乙巳の変含めを含めその後に出された「改新の詔」の発布までの一連の改革を「大化の改新」と呼んでいます。

この一連のできごとを、東アジアと絡めて見てみると、朝鮮半島から中国へと、日本の関心が移行していった様子がよく分かります。蘇我系の天皇のもとで蘇我氏が大きな権力を持つ、といった高句麗の政治形態によく似ています。ところが、遣隋使遣唐使などに同行し帰国した学僧や政治家たちによって、大帝国中国の文化や政治理論が伝わると、天皇を中心とし豪族は政治家として朝廷内に配置されるべきという、中央集権的な官僚政治のシステムへの移行が始まったのです。大化の改新とは、まさにその大きなシステム移行に伴う「痛み」だったのかもしれません。

中大兄皇子との出会いのきっかけと「談山神社」

中大兄皇子中臣鎌足の出会いのきっかけとなったエピソードが、日本書紀に記されています。

奈良県にある法興寺(現・飛鳥寺)の槻木の下で、蹴鞠に興じる中大兄皇子が、間違って飛ばしてしまった靴を、中臣鎌足が拾いました。身分の差のある鎌足にも真摯にお礼を述べる皇子に、やはりこの人しかいない!!と心を決めた鎌足は、蘇我氏打倒を打ち明け協力を仰いだのだそうです。お近づきになろうと、木陰などから機会を狙っていたのかもしれせんね。
(その前に中臣鎌足はもう1人の皇太子である軽皇子(のちの孝徳天皇)にも、近づいたが頼りなかったと感じたそう)

また、冒頭でも少し触れましたが鎌足を祭神とした「談山神社」の「談山」は、多武峰というこの山で中大兄皇子と鎌足が語らったため「談い山(かたらいやま)」と呼んだことにちなんでいるそうです。談山神社の伝えによると、鎌足の死後、入唐していた長男・定恵が帰国し墓所のあった摂津の国から、奈良のこの地に移し、十三重唐を作ったと言われています。この十三重塔は、世界でたった1つしか現存していない大変貴重な建物となっています。本堂には鎌足の木造が安置され、今でも人々の信仰を集めています。毎年、美しい紅葉の季節になると蹴鞠祭りが行われているそうです。機会がある方はぜひ観に行ってみてはいかがでしょうか。

中臣鎌足?藤原鎌足?使い分けのポイント

教科書では中臣鎌足、藤原鎌足、両方が出てきますので、ちょっと混乱してしまうことありますよね。どこから線引きをすればよいのでしょう。

中臣鎌足は死の直前に、一緒にクーデターを起こした天智天皇(中大兄皇子)が自ら見舞いに来てくれ、聖地である藤原の地名を取って藤原姓と、朝臣の身分を頂きました。その時から、中臣家はみんな「藤原制」になったのだそうです。この後次男の藤原不比等が跡目を継いでからは、不比等の家系だけを藤原のままとし、ほかはまた中臣姓に戻ってしまった様ですが・・・。

鎌足が生きた時代、鎌足が関わったできごとや事件では「中臣」を使い、後世にまとめられたものや藤原氏の祖として、鎌足を語る時には「藤原」を使う、と考えると分かりやすいですね。

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