仏像

自由の境地、解脱の陰に梵天あり

2017-12-18

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試験の終了や一大プロジェクトの終了後、人は解放感に包まれます。
人によっては「ああ、自由だ」と目の前が広がったような心境になるでしょう。
求道者でなくとも自由への解放感はとてつもない喜びなのです。
仏教では完全なる自由の境地を解脱(げだつ)と呼びます。解脱の陰には、梵天という神様の存在が見え隠れしていました。

悟りは解脱の第一歩

全ての苦からの解放、それが解脱です。仏教求道者の最終目的でもあります。
悟りを得る」という概念と同一視されがちですが、完全に同じというわけではありません。悟りも大事な要素であり目標ですが、実はプロセスの一つに過ぎないのです。
悟りとは、真理を知ること。真理を知ると、何物にも苦しめられなくなり、煩悩ともおさらばできます。
では解脱とは何か。煩悩から解放されてこの世、あの世といったあらゆる束縛、しがらみなどから抜け出すことを意味します。煩悩から解放される心解脱、完全に煩悩を滅する慧解脱の段階が存在。いわば解脱とは、悟りのであり、究極の自由なのです。

梵天がいなければ仏教はなかった

梵天がどう関わっているかと言えば、まず仏教を広めさせました。
悟りを得たお釈迦様は、「このまま死ぬのもいいだろう。人に教えたところで、皆に理解できるか分からないし」と思いましたが、梵天が語りかけてきました。「自分だけ悟って、それで終わりか?お前と同じく苦しむ人を助けなさい」。
梵天勧請と呼ばれるこの逸話により、お釈迦様が教えを広め今日の仏教があるわけです。

宇宙の真理梵天

「教えを広めろ」と言ってきた梵天がそもそもどういう神様か、と言えば宇宙の真理を神格化したものです。
元々インドではブラフマンと呼ばれていました。ヒンドゥー教では創造神です。自分の作り出した世界の中で人間たちが悩んだり迷ったりした挙げ句に「やったらアカン行為」にまで発展する様を見て「ちょっとしたことで楽になるのに」と思ったのか、悟りを得て解脱の段階に入ったお釈迦様に声をかけたようです。解脱の段階に入ったからこそお釈迦様は梵天、つまり宇宙の真理の声が聴けたのかもしれません。

梵我一如とそれを否定した仏教

仏教以前から解脱や輪廻思想は存在していました。
『ヴェーダ』と呼ばれる教典では、ブラフマン(梵天)と各個人の自我(魂)は実質的に同じであり、そのことに気づくことを解脱と呼んでいました。これを梵我一如と言います。
仏教ではそれを否定。「自我なんてないよ」というのです。個体としての自分はありますが、死んでからも自分というわけではありません。
では、生まれ変わりはどう説明するのかと言えば、一種の食物連鎖を想像すると分かりやすいでしょう。植物を食べる草食動物。それを食べる肉食動物。しかし、肉食動物が死ねば植物を育てることになります。
生まれ変わり、輪廻についてはこうした命のサイクルとして例えることができます。営みは続きますが、繁栄する生物は違っているのです。営みが世界であり、生物が自己になります。こうしたサイクルは飽くまで目に見える事象でしかありません。

苦しみの原因は執着や迷い

さて、冒頭に述べた通り多くの人間は自由を感じることがあまりないのが実情です。
それは執着や迷いといった煩悩にまみれているからに他なりません。執着するから恋は苦しいし、様々な選択肢とそれが引き起こす結果により苦しむのです。
しかし、仏教ではすべては縁起、因果関係に過ぎないと言っています。原因があるから結果があるのです。失敗をしたなら同じ失敗をしなければいいだけの話に過ぎません。
すべての事象は、ただそこにあるだけ。全てはどう感じるかでしかないのです。

まとめ

お釈迦様に関しては少し口を出したものの、その後どうやら梵天は、仏教の天部として信徒たちを見守っているようです。
梵天は自分(真理)に気付いてほしいと待っているのかもしれません。完全なる自由とは何物にも苦しめられない境地を示すもの。
その境地に至るのには様々な苦難もあるでしょうが、考え方ひとつで楽になることだってあるのです。
解脱とまではいかなくても、少しは気が楽になる考え方を模索してみませんか。ひょっとしたら梵天様の声が聞こえるかもしれません。

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