日本画

『序の舞』といえば上村松園、絵と文が語る松園の女気とは

2018-01-20

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「美人観書」東京富士美術館蔵

「序の舞」は上村松園の代表作です。『幾分古典的で優美で端然とした心持ちを私は出し得たと思っています』という松園の言葉がこの「序の舞」には添えられています。上村松園の絵には強くて儚い女性の魅力が溢れています。そこで、上村松園の『序の舞』をはじめとした絵と秘話について詳しくご紹介していきます。

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「序の舞」松園の思いは人を惹きつける絵になる

「序の舞」東京藝術大学蔵 重要文化財

「この絵は、私の理想の女性の最高のものと言っていい、自分でも気に入っている『女性の姿』であります」と上村松園は語っています。「序の舞」のモデルは息子松篁の妻たね子です。

この絵を描くためにたね子を京都で一番上手な髪結さんのところに連れていき、一番上品な文金高島田(和装の結婚式でも人気な髪型)に結ってもらい着物も嫁入りの時の大振袖を着せたといいます。松園は、上品、端麗といった感じを損なわないようにするためこだわりぬいたそうです。

細かい点にまで妥協したくないという松園の思いは、女の人でないと男の人にはわからなかったといい、その点についてはずいぶん苦労をしたと後に話しています。

「文金高島田」

「一点の卑俗(下品でいやらしいこと)なところなく、清澄な感じのする香高い珠玉のやうな絵こそ私の念願とするところのものである」と持論を語っていた松園の思いはこの絵の中にも宿っているようです。

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「序の舞」義母から義娘へ 娘(松園)から母へみせる愛の絵

「母子」東京国立近代美術館蔵

「序の舞」では、松園の義娘への愛情が見えてきます。そして、松園の母もまた娘への愛情深い人物だったようです。松園の絵には、母への思いが詰まったあたたかく美しい作品が数多くあります。

松園が生まれる二ヶ月前に父が亡くなっているため母仲子は、夫がしていた葉茶屋を継ぎ女手一つで娘二人を育てました。松園が成長すると親戚の反対を押しきり娘が望む画道へ進ませます。松園が第三回文展にだす絵の構想が出来ず苦しんでいる時の母仲子とのエピソードが残されています。

母は、苦しんでいる松園に「文展は、まあ皆の絵を並べている店のようなものではないか。大空から、その店を眺めるつもりになってごらん。今年は、私の絵がないのでさぞお店はさびしかろう。来年は、私の絵でうんと賑わしたろうと、まあこんな風に考えてごらん。それくらいの自信とうぬぼれがなくてはあかん(婦人の友 昭和12年11月号)」と言ったそうです。

母仲子は、松園の息子松篁(信太郎)の子育てなども手伝い、いつも松園が画の道で頑張れるよう娘を応援し支え続けていたといいます。松園にとって母仲子の存在は大きかったようです。そんな母仲子も昭和9年に亡くなってしまいます。

それ以降、松園の作品には母性を描いたものが多くなります。母仲子への追慕から生まれた新たな作風であり松園だから描けた世界だったと言われています。「母子」の絵には、松園のこんな言葉が添えられています。

「『母子』は、あの頃への思い出を描いたものであるが、いわば、私ひとりの胸の奥に残された懐かしい思い出なのである。(中略)世の中が急激に移り変わってゆくのを眺めるとき、私には、余計にあの頃の風俗をのちのちの人のために描き残したい念願がつよまるのである(ポケットギャラリー上村松園より)」

「序の舞」のように見る人の心をつかむ松園の優美な美人画

「雪月花」宮内庁三の丸蔵館蔵

大正5年頃、貞明皇后からのご依頼で20年あまりの歳月をかけて完成させたといわれているのが「雪月花」です。藤原時代の宮廷風俗を四季にわけて三幅対で描いています。一幅目は、松園が若い頃からよく描いていたという清少納言の簾を巻く優美な姿の絵になります。

2幅目は、紫式部が近江の石山寺にしばらく引きこもり祈願し「源氏物語」の構想を考えたと言われている場面です。3幅目は、「伊勢物語」23段にある『筒井筒』の場面、お互いに惹かれ合う幼馴染が後に結婚。その後の2人の関係を物語にした話が題材になっています。

「楊貴妃」松柏美術館蔵

王朝の才女を描いた「雪月花」は、趣がある美しい作品として知られています。松園が話す友人というのが、清少納言、紫式部など歴史の中の人物でした。「雪月花」でも松園の友人という才女が登場しますが、その他の作品の中でも「楊貴妃」があります。

「私の友人は、支那の故事とか、日本の古い物語や歴史のなかの人物である。小野小町、清少納言、紫式部、亀遊、税所敦子そのほかいくらでもある。楊貴妃、西太后…数えればきりがない。心の友は永久に別れることのない友である(ポケットギャラリー上村松園より)」

松園の言葉とともに楊貴妃の品のある美しさが際立った作品です。「楊貴妃」という画題は、円山応挙たちにより清国からもたらされた唐画を手本にしたのが始まりとされています。松園もこの手本を元に「楊貴妃」を描いたようですが、松園の「楊貴妃」には、彼女ならではの清楚な画風があります。

「序の舞」に魅せる女気は松園そのもの

松園の描いた作品のほとんどが達者な毛筆描きです。その毛筆描きは、目を近づけてみないと鉛筆と毛筆の区別がつかないほどだといいます。時には細かく時には力強い線で描かれた軽快な筆さばきが自由に紙の上を走っているようだとも言われています。

日本画で毛筆だけを用いて描く手法をとるのは松園だけのようです。その他にも松園は、毎年祇園祭の山鉾巡行の前の数日間、屏風を飾る商家に訪れ、縮図帖に熱心に写生していたといいます。つねに絵を研究し、絵の制作に没頭し続けた松園の姿は、京都の人々の間でも有名で身近な存在だったそうです。

「芸術を以つて人は済度する。これくらいの自負を画家は持つべきである。真・善・美の極地に達した本格的な美人画を描きたい。私の美人画は、単にきれいな女の人を写実的に描くのではなく、写実は写実で重んじながらも、女性の美に対する理想やあこがれを描き出したい」という松園の言葉があります。

絵の制作で一週間徹夜し続けるときもあったという松園の生活スタイルもまた有名な話です。絵に一生をそそいだとも言われている松園の絵を見る時の参考にしてみてください。

上村松園の美人画「序の舞」に込められた、凛とした女性画家のプライド

「序の舞」東京芸術大学芸術資料館蔵

「序の舞」は、上村松園によって描かれた絵です。和服姿の女性が舞を披露している姿が美しい作品として知られています。上村松園自身この絵を「自分でも気に入っている」と話していたそうです。ここから、「序の舞」と美人画家上村松園について詳しくご紹介していきます。

「序の舞」と上村松園

「日本舞踊を踊る女性」

「序の舞」のモデルになった女性は上村松園の息子の上村松篁(うえむらしょうこう)の妻(義理娘)です。この絵を描き上げるのに家中の女性にセンスを持たせてスケッチを重ねたそうです。そして、理想の形になるまで何度も直していったと言います。画面のバランスを計算し、扇子を持つ腕を伸ばす女性の姿勢が優美に出ている最高傑作です。

「この絵は上流家庭の令嬢風俗を描いた作品ですが、仕舞いの中でも序の舞はごく静かで上品な気分のするものでありますから、そこをねらって優美なうちにも毅然として犯しがたい女性の気品を描いたつもりです。

(中略)何者にも犯されない、女性のうちにひそむ強い意思をこの絵に表現したかったのです。いくぶん古典的で優美で端然とした心持ちを、私は出し得たと思っています」(青眉抄より)と、この絵に対する上村松園の言葉が残されています。

上村松園は、日頃から女性は強く生きるべきと考えていたようです。上村松園の描く女性像と彼女の絵に対する姿勢が見えてくる作品としても「序の舞」は有名です。

強い女性と気品を兼ね備えた上村松園

「娘深雪」足立美術館蔵

京都の「ちきり屋」の次女として生まれたのが上村松園、本名上村津禰(つね)です。父は、松園が生まれる2ヶ月前に亡くなっています。母は2人の娘を再婚もせず、気丈に育てたといいます。母は、幼い頃から絵を描くことが好きだった松園を京都府立画学校に入学させます。

画学校で鈴木松年の教えを受けるようになるのですが、間もなく画学校で内紛があり松年が退職してしまいます。その時、上村松園も鈴木松年についていき画学校を退学し、松年門の塾生になることを決意します。

ちなみに上村松園の息子松篁の父が鈴木松年と言われています。松園は未婚のまま息子を生んでいるのですが、あまり松篁の父親について多くを語らなかったそうです。松園の息子上村松篁とその息子の上村淳之(うえむらあつし)もまた日本画家です。

話を戻して、上村松園は、松年画塾に入り3年目に自分の雅号を「松園」としたようです。松園となってからの彼女は、ますます絵に没頭していくようになり、明治26年には、日本画家の幸野楳嶺(こうのばいれい)の門に入る決断をします。

幸野楳嶺と鈴木松年は画学校の内紛以来対立し合う仲だったようですが、上村松園の弟子入りを双方が理解しているところに2人の男性の器の大きさが見えてくるようだと言われています。

幸野楳嶺に弟子入りした当時は、自分の画の癖を注意されることも多く、かなり混乱してしまい絵筆を棄ててしまおうと悩んだこともあったそうです。しかし、そこから自分なりの絵を創り出す方法をあみだしていったといいます。

幸野楳嶺の死後、彼の四天王と呼ばれた門下生のひとり竹内栖鳳(たけうちせいほう)の元で絵を学んでいきます。竹内栖鳳には、今までにない新しい画風があり常に写生をすることを徹底されたそうです。

多くの男子門下生のなかで唯一女性であった松園でしたが、泊りがけの写生旅行にもよく出かけ疲れ果てて帰ってくることもしばしばあったといいます。竹内栖鳳の元で裸体の人物描写などを経験していくうちに十分な技法が身についていき松園の美しい女性像に磨きがかかっていきます。

そして、明治33年に開催された日本美術院、日本絵画協会第九回共進会の合同展で下村観山、菱田春草、横山大観、鈴木松年、川合玉堂とならんで上村松園の「花ざかり」が銀牌(ぎんぱい)の栄誉を獲得します。上村松園25歳のときでした。

「序の舞」に見られるような強く凛とした女性を物語る上村松園

「上村松園」

この日本美術史会の有力メンバーの中に入った上村松園の名前は一躍有名になっていきます。しかし、女性であることへの偏見や妬みを感じる人も中にはいたようです。それが現れた事件が明治37年の第9回新古美術品展で起こります。

上村松園がこのとき出品したのは「遊女亀遊」という絵です。この絵は、亀遊という女性が遊女でありながらもアメリカ人の客を取ることを拒み続け、自分は大和撫子の誇りがあることを示したという話がモデルになっています。

しかし、会場で飾られた「遊女亀遊」に何者かが鉛筆で落書きをするという事件が起こります。悲劇はそれだけではなく、事務局もまた上村松園が若い女性であることから威圧的な態度で「落書きのある部分を直せ」と命令口調で彼女に迫りました。

松園は事務局のその対応に毅然として拒否し続けたといいます。その後、事務局側が彼女に陳謝したということですが、「遊女亀遊」を現実に松園が物語っているような事件として知られるエピソードになっています。

凛とした強い女性そのものの上村松園だからこそ描ける「序の舞」をはじめとした優雅な女性の美人画をぜひ堪能してみて下さい。

美人画の祖である歌麿と上村松園の近代美人画の魅力

「婦女人相十品 煙草を吸う女」

「婦女人相十品 煙草を吸う女」は、喜多川歌麿の作品です。女性が胸をはだけだし煙草を吸っている姿に、よく見ると女性の口から吹き出した煙草の煙が雲母の上に空摺(からずり)で渦を巻いているのがわかります。

衰勢した女性美が見事に表現されていると言われている作品です。「美人画」は、江戸時代から大衆芸術の娯楽として多くの人々から親しまれてきました。今で言う映画や雑誌などの娯楽流行の中に「美人画」があったようなものです。

そして、美人画の流れは近代美人画へと受け継がれていき、多くの画家が手がるようになります。ここでは、美人画の祖ともいえる喜多川歌麿から近代美人画の代表である上村松園の絵について詳しくご紹介していきます。

喜多川歌麿の妖艶な美人画に迫る

「櫛をもつ美人」ルーブル美術館蔵

美人画家の代表として人気があったのは喜多川歌麿です。「櫛をもつ美人」は、べっ甲櫛を透かし満足気な表情を浮かべる女性の姿が表現されています。江戸時代にべっ甲が入ってくると、べっ甲の櫛が当時の女性達の中で大流行したそうです。

この絵に描かれている女性も歌麿にしか出せない妖艶さが出ていて、まさに浮世絵美人の祖といえる作品として知らえています。歌麿のバックに描かれている更紗模様(さらさもよう)の手法をヴィンセント・ファン・ゴッホが自らの絵に取り入れていることでも有名です。

「当時全盛美人揃 兵庫屋内 花妻」

「当時全盛美人揃 兵庫屋内 花妻」は、吉原の大見世の代表的な遊女を描いた作品です。歌麿作品では、遊女がたびたび描かれています。この絵もその中のひとつです。そった姿勢で片ひざを上げている姿、細やかな手のしぐさ、白い肌が際立ち色気を感じさせる絵と言われています。

「錦織歌麿形新模様 うちかけ」

「錦織歌麿形新模様 うちかけ」は、全身無線刷で描かれ、色彩や陰影を巧みに用いて表現されています。肌の透明感や柔らかさをだし、一定の距離感を感じさせて主体を浮かび上げる効果を出すためにあえてバックが濃い色の黄色で描かれているようです。

この技法は、ヨーロッパの水彩画に見られる技法だそうです。歌麿が描く美人画には、技法だけではなく女性の内面がしっかり表現されていると言われています。

近代美人画 上村松園が描く女性美

「鼓の音」

「鼓の音」は、上村松園が描いた作品です。女性の描線の細やかさ、中でも手の仕草が美しい美人画といえます。

上村松園とは、近代美人画史において絶対的な存在の女性画家と言っても過言ではない人物です。京都の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれましたが、父親は松園が生まれる二ヶ月前に他界しており、当時26歳であった母親ひとりが店を切り盛りして二人の子供を育てたようです。

松園の母は、男勝りで絵を好んでいた人物だったと言われています。そんな母に似て松園も幼い頃から絵を描くことが好きだったようです。「京都史四条通りの『ちきり屋』の娘はいつも絵を描いていると評判になるほどだったそうです。

「上村松園」

母は、松園を小学校卒業後に京都府画学校へ入学させます。親戚や周りの人たちからは、「女の子に絵など習わせても仕方ない」と非難されたようですが、母はその言葉を無視して松園を応援してくれたそうです。

このときのことを松園は「私はそのときばかりは、母の前で泣かんばかりに感謝したものでした。私の画道へのスタートは、この学校をもって切られたといってもいいのです。

画学校に入ることが決まった時、子供心にも何かしら前途に光明を見出した思いをいただきました」と語っています。その言葉通り上村松園は、美人画家として日本画史に残る人物になります。

「雪」

「雪」では、傘をさした美人を描いています。上村松園は、雪中の傘をさした美人を好んでいくつか描いています。大きな蛇の目傘に体格の良い美女を描くことで女性の美しさを際立たせているようです。

上村松園が描く絶世の美女達

「草紙洗小町」

この絵には、題材になる物語があります。宮中で行わる歌合せの会で大伴黒主が小野小町の相手と決まった時、到底勝ち目がないと思った大伴黒主が歌合わせの会の前日の夜に小町の家に忍び込みます。

家の中から聞こえる小町の口ずさむ歌を盗み聞きし、それをそのまま万葉集の中に書き入れて「小町の歌は古歌を盗んだものだ」と言って小町を陥れようとしました。

しかし、小町はその万葉集に書かれた墨の色が他とは違うことに気づき天皇の許可を得て、その草紙を洗って書き入れた字を消して盗んだものではないことを証明したという物話が元になっています。

松園はこの物語に能舞台の能面を生きた美女として描くことを思いつき「草紙洗小町」の構図にしたと言っていたそうです。

「伊勢大輔」

「伊勢大輔」は、「草紙洗小町」に対応するように作られた絵で、ローマで行われた日本美術展に出品された作品です。伊勢大輔(いせのたゆう)は、平安朝中期の女流歌人で、三十六歌仙のひとりとして知られています。

神宮の際主大中臣輔の娘で、百人一首「いにしへの奈良の都の八重桜、けふ九重ににほひぬるかな」の歌でも有名です。

「月蝕の宵」

若い女性二人と母親らしき女性の袖を引っ張る幼い子供、母親の手には月蝕を鏡で写そうとしている姿が描かれています。女性達のにぎやかな様子に後方からひとりの女性が近づいてきています。

「左 上村松園 右九条武子」

この女性のモデルは、当時大正美人のひとりとして有名な松園の弟子の「松契」のちの「九条武子婦人」と言われています。

上村松園は、美人画を描き続け「私の一生は姉様遊びをして過ごしたようなものです」と語っていたそうです。その言葉通り上村松園が手がけた美人画は、まだまだあります。ぜひ、松園と歌麿の美人画に酔いしれてみてください。

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