日本史

『冨嶽三十六景』その作者葛飾北斎の奇才ぶりとは

2018-08-15

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「葛飾北斎」の名前は、現在では世界的に有名ですが、実は「北斎」と名乗っていたのはほんの一時期だと言われています。北斎は頻繁に雅号を変え、せっかく名前が知られても、また新しい名前を使って作品を発表していました。

北斎が生涯で転居した回数は93回。これを聞いただけでも北斎の奇癖がみえてきます。年齢を重ねるたびに絵が上手くなっていく奇才ぶりも秀でていました。70歳代前半からの北斎は“錦絵の傾注期”と言われる円熟期を迎えます。

「赤富士」

北斎は、『百物語』『冨嶽三十六景』『琉球八景』『諸国滝廻り』など数々の錦絵を世に送り出しました。中でも『冨嶽三十六景』(全46作品)は、北斎の代表作と言われています。驚くことに『冨嶽三十六景』は、わずか4年で制作されたと言われています。

当時の人々は、『冨嶽三十六景』シリーズの新作が刊行されるたび、こぞって買い求めたそうです。『冨嶽三十六景』のあまりの人気の高さに、その後『冨嶽百景』へと描き継がれていきます。現在でも『冨嶽三十六景』を「自分の部屋に飾りたい」「手元に置いておきたい」と思う人が大勢いると思います。

しかし、一枚一枚買い揃えるのは大変だと思い悩んでいる人が多いかもしれません。そんな人のために、葛飾北斎『冨嶽三十六景』額付カラー複製 四十六図 完全コレクションが販売されています。



ここから、『冨嶽三十六景』の人気の秘密と北斎の奇才ぶりがわかる作品を詳しくご紹介していきます。きっと『冨嶽三十六景』の魅力にハマるはずです。

見えないはずの風の流れが鮮明に見える「駿州江尻」

「駿州江尻」
東海道江尻宿は、三保の松原の景勝地です。ここには、[姥ヶ池(うばがいけ)]という物語にもなっている有名な池がありました。その江尻を画題にした「駿州江尻」では、蛇行した道に富士山特有の強風に難儀している旅人の姿が描かれています。

人物の動態の身ぶりが的確に捉えられているだけではなく、懐紙、笠、木、葉がリアリティを持って描かれています。目に見えない風の動きを見事に描き出すこの手法は、北斎にしかできない技とも言われ、北斎の奇才ぶりがうかがえる作品として人気があります。

また、「駿州江尻」では、斬新な構図表現だけではなく、当時西洋から輸入されたばかりの人工顔料「ベロリン藍」、別名「唐藍」が使われています。ベロ藍は発色が良いことから大流行しました。ベロ藍をいち早く取り入れ、有名にしたのが北斎です。人々から「ベロ藍=北斎の冨嶽三十六景」と結び付けられるほどだったと言います。

ベロリン藍を浸透させた北斎のベロ藍シリーズ「信州諏訪湖」

「信州諏訪湖」
諏訪湖は北斎がしばしば取り上げている画題ですが、そのひとつに『冨嶽三十六景』の「信州諏訪湖」があり、これは北斎の諏訪湖作品の中でも最も優れた作品として知られています。

暗く沈んだ湖畔に淡い色合いが水面の広がりを表現しています。この作品でもベロ藍がうまく生かされ、情緒を醸し出しています。そこに、空の薄紅色の夕日が重なり、水と空の調和を生み出す効果を作り出していることがわかります。

北斎の奇才ぶりは画面構成にも見える「遠江山中(とおとうみさんちゅう)」

「遠江山中」
遠江(静岡県)の「大鋸挽き(おおがびき)」の光景を描いた作品が「遠江山中」です。「大鋸挽き」とは大鋸で材木を切る作業のことで、木挽(こびき)は作業する人のことです。

北斎は、画面前景に大きな角材を配置し、木挽が精を出している姿を印象づけて、見る人の目に飛び込んでくるように計算しています。そして、三角形の木組の間から富士山が見えるように視点を下げるという大胆な構成にしているのです。これだけでも北斎のずば抜けた異才が見えてきます。

さらに、富士山に巻き付くような雲と焚き火の煙、上下に分かれた木を挽く二人の男の姿、一対の三角の支柱に八の字形に配置された藁ゴザなど、多様な三角形の配置や構図などが緻密に計算されて描かれています。このような画面構図を作り出すことで、リアリティを生み出しています。まさに北斎の妙技が溢れ出たと言える作品です。

百人一首でも有名な「東海道江尻田子の浦略図」

「東海道江尻田子の浦略図」
「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の富士の高嶺に 雪は降りつつ」百人一首で知られる山部赤人の句です。この句でもなじみのある、海上から富士山を見た田子の浦の景色を描いた作品です。

北斎の描く田子の浦は、波がたつ海上に漁船と浜辺で働く人々の姿が描かれています。生きているような波の表現は見どころのひとつです。その背景に青々とした富士山に霞がかかる美しい景色が広がりを見せ、まさに“霊峰富士”といった趣があります。

『冨嶽三十六景』が当時の人々の心をとらえた秘密

「富士山」
当時の人々の間では、富士山を聖なる場所とする“富士信仰”が大流行していました。北斎もまた富士山に心惹かれていました。北斎は、風景を描きつつも人々の日常にも目を向けます。

それは北斎が富士山と人々の生活が共にあると考えていたからです。『冨嶽三十六景』では、人々が働く中で、気がつくと富士山が人々の生活に寄り添っている景色が広がっていきます。この『冨嶽三十六景』の富士山と日常の景色に、人々は安心感を抱いたと言われています。

また、北斎にとっても富士山は特別の存在だったことがわかります。北斎が用いていた雅号の中に「為一」というものがあります。この「為一」は、「富士=不二」の字からとり、日本一の富士山のように、いつか画人として日本一になるという気持ちがこの雅号に込められているではないかという説があります。

このように、『冨嶽三十六景』は、北斎の奇才ぶりと彼の人柄、富士への熱い思いが感じられる作品ばかりです。しかし残念ながら『冨嶽三十六景』は、テレビやパソコンの画面では細部の描きこみや、絶妙な色の移り変わりまで見ることは困難です。

そこで、おすすめしたいのが、葛飾北斎『冨嶽三十六景』額付カラー複製 全四十六図 完全コレクションです。四十六図をじっくり鑑賞することで、北斎の魅力を身近に感じることができます。ぜひ北斎の『冨嶽三十六景』を近くで楽しんでみてください。 



社会現象を巻き起こした『富獄三十六景』の人気。北斎の描く富士のおもしろさ

「凱風快晴」冨嶽三十六景 東京国立博物館蔵

「冨嶽三十六景」は、葛飾北斎の出世作とも言われています。現在でも北斎の「冨嶽三十六景」は広告などでも使われているので、馴染みがある絵といえるのではないでしょうか。そこで、「冨嶽三十六景」の描き方、北斎の試みなど興味深いエピソードを詳しくご紹介していきます。

社会現象を巻き起こした北斎の「冨嶽三十六景」

「山下白雨」冨嶽三十六景 東京国立博物館蔵

北斎は、20代の頃から画道にはいり、浮世絵の様式である美人画、役者絵、時には洋風版画など数々の絵を試みてきました。絵の道へ入り始めた頃は、貧苦との戦いだったといいます。

長い年月をかけ北斎ならでは画法を築き上げて出来た作品が「冨嶽三十六景」です。北斎70歳になってからのシリーズ絵です。この作品で北斎の知名度が上がり江戸時代の人々の関心を一気に集めといいます。

版元(出版社)は、北斎の「冨嶽三十六景」シリーズの次の絵の広告を巧みに出し、人々の興味をさらに集めていた点からも「冨嶽三十六景」が、江戸時代の人々にとって社会現象を巻き起こすほどの大ヒット作であったことがわかります。

「冨嶽三十六景」は、主にその時代の風俗描写がメインで背景に自然(富士)を描くという浮世絵風景の基本的な構図がとられることが多かったのですが、違った構図法がとられた絵も存在します。

現在でも有名な「赤富士」と呼ばれる「凱風快晴」や「山下白雨」は、富士だけを正面から描きあげるという構図法がとられています。「凱風快晴」は、初夏にふく南風(凱風)、早朝の快晴のときだけ見られる赤く染まった富士を表した絵です。

一方「山下白雨」は、夏に起こる夕立(白雨)の富士の様子を描いています。漆黒の裾野と富士より下に出来る稲光、うってかわっておめでたい時にかかる瑞雲のような白い雲を描くことで「霊峰富士」の印象をより明確にする狙いがあったようです。

「神奈川沖浪裏」冨嶽三十六景 東京国立博物館蔵

そしてもうひとつ、「冨嶽三十六景」の中だけにとどまらず北斎の傑作とされる「神奈川沖浪裏」もまた有名な絵になります。画家ゴッホが賞賛し、フランスの作曲家ドビュッシーがこの絵を掲げ交響曲「海」を作曲したというのも有名な話です。

国内外でも旋風を巻き起こすほどの大ヒットとなった「神奈川沖浪裏」は、激しい波の間から見える富士で動静を表し、洋風絵画でみる遠近法を使い大自然の驚異を見せています。
「神奈川沖浪裏」は、もともと宗理時代の狂本絵本「柳の糸」の挿絵で、時代を経て支点を低い位置からとらえ描き出し完成させた北斎画法と言われた作品です。

「冨嶽三十六景」の裏富士の秘密とは

「見延川浦富士(みのぶがわうらふじ)」冨嶽三十六景裏富士

「冨嶽三十六景」は、大ヒットから10枚追加出版され計46枚でできています。後で出た10枚を再版(二度目)となることから「裏を返す」の語源をとって「裏富士」とよばれるようになりました。

はじめに摺られた作品は藍摺り(藍色のみで濃淡を出す。または、藍色に少量の紅や黄色だけを加えて摺る方法)に近いものばかりでしたが、後に出された「裏富士」10枚は、墨線で摺られています。

その結果、こみいってまとまりがつかない印象を与え北斎晩年のくどい運筆法が目立つという風にも言われているのですが、裏富士ならではの情緒もあり見ごたえのある絵になっています。

「見延川浦富士」は、荒波をたてる川に雲がもくもくと湧き上がる様子が描き出された絵です。実景とは程遠い景色だったようですが、北斎のイメージする旅の光景が反映されて出来上がった絵ではないかと言われています。

「東海道金谷ノ不二」冨嶽三十六景裏富士

「見延川浦富士」のような北斎独特の水の動きを描き出した作品に「東海道金谷ノ不二」があります。東海道屈指の難所といわれていた場所で、静岡県の大井川の徒渡しを金谷側から見た様子が描かれています。

対岸側の島田宿(島田市)で注目する点は、旗と、川の中の長持や旅人の背に版元である「永寿堂西村」を物語る「永」「寿」の字と商標が描かれていることです。

「駿州大野新田」冨嶽三十六景裏富士

静岡県富士市の大野新田は、正面から富士を眺めることが出来る絶景の場所だったといいます。枯れ葦を運ぶ農夫、刈りたての葦を背負子(しょいこ)で運ぶ農婦の姿が描き出された味わい深い作品です。

「駿州片倉茶園の不二」冨嶽三十六景裏富士

謎が多い作品のひとつが「駿州片倉茶園の不二」になります。場所がいまだに不明のままで不思議な光景が広がっている絵とも言われています。

たとえば、茶樹の植え方、お茶の葉独特の濃緑や若葉色ではなく黄金色をしている点、田園風景のようなあぜ道、農家が点在していることなどがあげられています。おそらく北斎の想像図だったのではないかと言われた作品です。

「諸人登山(もろびとざん)」冨嶽三十六景裏富士

裏富士最後の作品ではないかと言われているのが「諸人登山」になります。富士山頂にたどり着いた様子がわかる絵です。

疲れて休む人々、岩室の中で身を寄せ合っている人々など富士登山の苛酷な状況を表しています。富士信仰をする人々を描き出すことで「冨嶽三十六景」のしみじみとした味わいを出しているようです。

「冨嶽三十六景」が巻き起こした社会現象は浮世絵界に衝撃を与える

「海上の不二」富獄百景

「冨嶽三十六景」の刊行により浮世絵界に衝撃が走ります。「冨嶽三十六景」の好評から間もなく歌川広重が北斎を大きく意識した画風の「東海道五十三次」を刊行します。

若いライバルの登場に73歳になった北斎は、さらに「富士=北斎」を人々に印象づけなおさせるために「冨嶽百景」を出します。「冨嶽三十六景」で描ききれなかった富士スポットをさらに「富士百景」で描き出したシリーズです。

「北斎」

「冨嶽三十六景」の「神奈川沖裏浪裏」「山下白雨」など人気が高い絵は、「冨嶽百景」で「海上の不二」「夕立の富士」として描かれています。年をとるごとに絵がうまくなりその勢いも衰えることがなかったという北斎の闘志みなぎる「冨嶽三十六景」を見る時の参考にしてみてください。

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