仏像

仏教は救いの船。二乗とは何か

2018-01-26

関連キーワード

溺れる者は藁をもつかむ、と言いますが、どうせならいかだや船に乗りホッと一息つきたいものです。しかし、真の救済とは何なのでしょう。

「乗」という字を使う理由

「乗」という字は仏教において大きな意味を持ちます。サンスクリット名ではヤーナ。意味は道です。
それが何故「乗」という字が当てられたのか。仏の教えを、煩悩や苦悩にまみれた世界から悟りへと導く救いの乗り物、船だと認識した為です。

声聞と縁覚という二乗

初期仏教における修行者は声聞(しょうもん)、もしくは縁覚(えんがく)と呼ばれていました。
この声聞と縁覚は単に修行僧としての位ではなく、修行法の一つです。この二つもまた二乗と呼ばれます。
声聞とは、師匠について説法を聞き、それで修行をする僧侶です。縁覚は師匠を持たない独学派。ついでに言うと、縁覚は悟ったことを他者に漏らすこともありません。完全なる独立型と言えます。どちらにせよ、最終目的は阿羅漢という高僧になることです。仏になることまでは考えません。
何故なら、お釈迦様以外の仏はいないからです。「仏陀にはなれないから、阿羅漢になろう」といった初期仏教は、後に部派仏教、もしくは小乗仏教と呼ばれます。声聞、縁覚共に教理があり、それぞれ声聞乗、縁覚乗といい、二乗とされます。

大乗仏教で批判された二乗

何事も発展していくものです。仏教も例に漏れず発展をしました。大乗仏教の台頭です。
これは初期仏教の考えに疑問を持った人々により起こりました。初期仏教では「在家ではなく出家をしないと駄目。出家もできない奴が何で救われるなんて思うんだ」との考えがあったのです。
これに異を唱えた人々が出始めました。「皆が救われるべきじゃない?自分たち出家僧だけが救われればそれでいいの?そんなのお釈迦様の教えに反してるよ」と、誰でも仏になれる、救われると言った教えを説くようになったのです。「本当の悟りは他者を救うことで成される」との考えから生まれたのが菩薩です。観音菩薩、弥勒菩薩などのあの菩薩は、元々修行者という意味で、かつての修行僧も菩薩と呼ばれました。
事実、伝承で語られる有名どころの菩薩修行の傍ら衆生を救うために奔走していますし、あらゆる仏が生まれたのも大乗仏教です。

小乗と大乗

小乗、つまり「器が小さいね」とやや揶揄したような言い方をされる部派仏教ですが、今でもタイなどの国では上部座仏教が信仰されています。
小乗仏教も大乗仏教も、信徒にとっては大事な信仰の対象であり、ある種の心の拠り所なのです。この二つの教えもまた、二乗とされます。
そもそも部派仏教の教えは「お釈迦様はあまりに偉大で、誰もあの境地にたどり着けない。それでも阿羅漢になれば救われる」というものです。

まとめ

部派仏教でも「お釈迦様は人間だよ」とする上座部と、「お釈迦様は雲の上の存在」とする大衆部に分かれています。
大乗仏教はそんな無事は仏教を「視野が狭い」とみなしていますが、信者がいる以上、救われている人物がいるのは明白でしょう。どれが正解か、などは一概に言い切れません。元は一つの教えなのですから。どの船に乗り、明るい救済の道へ行くかはあなた次第ということです。

    ▲ページトップ