深大寺は縁結びから生まれた寺院

2018-02-05

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東京都調布市にある深大寺。正式には「深沙大王寺」と称することはあまり知られていません。深沙大王は水の神様として有名ですが、実はこの神様が結んだ縁が、深大寺建立のきっかけになったのです。

古き良き武蔵野の面影を残す深大寺

深大寺のあるのは東京都調布市。都心からそれほど離れていないエリアにありながら、古き良き武蔵野の面影を残す場所にある寺院です。本堂の裏手の雑木林から繋がる神代植物園までの景色は、往時の武蔵野の様子を彷彿とさせます。深大寺までは新宿から京王線を利用すれば、約15?20分。他にもJR中央線や総武線でもアクセスできる、非常に便利な立地です。

山号を浮岳山といい天台宗の寺院。733年(天平5)に創建されたと記録があり、当時は法相宗の寺院だったようです。比叡山延暦寺が台頭してきた平安時代初期に、法相宗から天台宗へ宗旨を変えたと伝わっています。ご本尊は阿弥陀如来。安置されている「金銅釈迦如来倚像」は白?時代の傑作と言われる名品です。

深大寺の正式名称は深沙大王寺

実は深大寺というのは正式な名称を略した呼び方で、本来は「深沙大王寺」というのが正しい名前。文字どおり深沙大王を祀る寺院というのが、深大寺の本来の姿なのはあまり知られていません。深大寺が建立されるきっかけとなったのがこの深沙大王。深沙大将とも呼ばれている、十六善神に数えられる神様です。

名前にもされている通り、この深沙大王が深大寺建立に深く関わっています。記録によると深大寺を開山したのは満功(まんくう)上人。奈良時代中国へ渡って仏教を学んだ、当時で言えばエリートの部類に入る僧です。この満功上人は、深大寺を開くために仏門に入りました。

深大寺の深沙大王は縁結びの神様

その昔、柏野というところに右近の長者と呼ばれる人がおり、その娘は美しいことで広く知られていました。良い婿を取ろうと常々考えていたところに現れたのが「福満」という青年。娘に一目惚れした福満は「千束の文」を送り思いは成就します。ところが、生まれも素性もわからぬ青年を、右近の長者は娘の婿に認めません。娘は湖の小島へ隔離されてしまいました。

恋しい娘に何とかして会いたいと、福満は毎日湖畔に立ち思案にふけっていたところ、玄奘三蔵の説話を思い出します。大河を渡れず難儀していた三蔵法師が、祈願の末「深沙大将」という水神に助けられたという説話です。青年も必死に祈願と続けたところ、深沙大王の化身として現れた亀の背に乗り、無事に湖を渡りました。この話を聞いた右近の長者も、「神が味方するほどの男なら」と二人の仲を許し、青年を婿として迎えました。

深沙大王は本来ならば水の神様ですが、この伝承では恋する二人の仲を取り持つ役割を果たしています。このことから深大寺には縁結びのご利益があるとされ、祈願に訪れる人も多くいます。この伝承には続きがあります。

両親の縁結びの感謝のために建てられた深大寺

やがて二人の間に生まれた男児が大きく育つと、福満は2人の馴れ初めを説明し、深沙大王を祀るために仏門に入ることを諭します。本来ならば福満が僧侶になるべきですが、右近の長者の跡を継いで、柏野を収める豪族の長という重責があるため、息子にその役割を担って欲しいと告げたのです。

これを聞いた息子はそれならばと出家し、唐へ渡り法相宗を修め無事に帰国します。武蔵野に戻った息子は、休む間も無く湖のほとりに小さな庵を結び、深沙大王を祀りました。これが深大寺の開祖と伝えられています。唐で仏法を学んだ息子が、先ほど出てきた満功。当時は唐で修行した僧侶といえば、朝廷からも引く手数多であったはずですが、父母との約束通りに武蔵野へ戻り、深大寺を開山した両親思いの僧侶だったようです。

吉凶織りなす1300年にわたる深大寺の歴史

天平5年に開山してから約1300年にわたる深大寺の歴史。長い歴史の間には、失火や戦火による焼失の被害も多かったようです。鎌倉時代には丸ごと全て焼き払われてしまい、世田谷に所領を持っていた吉良氏によって再建されました。

その後小田原北条氏や、徳川幕府により深大寺は50石という、寺院としては破格の寺領を約束されてきました。広大な寺領は江戸時代末期まで続きましたが、慶応元年に失火により山門と常香楼をのぞき全焼してしまいます。その後すぐに明治時代に変わってしまったため、深大寺の復興も廃仏毀釈の影響で足踏み状態に。本格的な復興計画が始まった頃にはすでに明治時代も終わり頃、本堂が完成した頃には大正時代になっていました。

焼失する前の姿を取り戻したのは、昭和時代それも戦後になってから。深大寺全体の修復が始まった頃には、慶応元年の焼失からすでに120年以上の月日が流れていました。現在の深大寺を見ると、そのような苦難の歴史があったことを示す傷跡は、ほとんど見当たりません。深大寺を想う人々が、丁寧に復興を成し遂げた様子が伺えます。

深大寺に湧き続ける清らかな水と深大寺そば

深大寺が創建された当時は、多摩川のあたりに広がる湿原が武蔵野の姿でした。一面の足野原が広がる中に、のちに深大寺が建てられた丘が浮かんで見えたというのが、深大寺の山号「浮岳山」のいわれだそうです。

江戸時代になる頃には深大寺のある一帯は、湧き水の多い水の豊富な地域だったようです。深大寺にもいくつもの湧き水がありました。それまでも地域の住民たちの生活用水として、大いに湧き水が活用されていましたが、江戸時代に入ると湧き水の利用にも変化が生まれます。

徳川家康が江戸に幕府を開いてから約100年で、江戸の人口は推定100万人を超えていたといわれています。これは同じ時代のパリやロンドンを凌ぐほどの人口で、世界でも類を見ない巨大都市となっていました。人口が集中することで持ち上がってきたのが食糧問題。それまで人が手で行っていた蕎麦や小麦の製粉を、水車を使った粉挽小屋を作ることで賄う必要に迫られ、注目されたのが武蔵野の豊富な水源です。深大寺の門前にも水車小屋が3つあったことが記録に残っています。深大寺の代名詞のもなっている「そば」は、江戸の食料対策で生まれた名産品だったのです。

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