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国家安泰の守り神を祀る石清水八幡宮

2018-02-07

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石清水八幡宮のご祭神は八幡大神。八幡大神は長きにわたり広く信仰された神様で、八幡神を祀る神社は他と大きく差をつけて全国で一番多い神社です。都の鎮守や武運の象徴として崇敬を集めた八幡神は、神様を祀るための神祇祭祀の基本を今に伝えています。

王城鎮護の神様が祀られている石清水八幡宮

石清水八幡宮は平安京の南西にあたる男山にあることから、「男山八幡宮」と呼ばれることもあり、「やはたのはちまんさん」と呼ばれ親しまれている神社です。京都府八幡市に位置する男山の山頂の神社までは、最寄りの駅から男山ケーブルを利用して、「男山山頂」駅から5分ほど歩いて向かいます。体力に自信のある人は古い参道を歩いて登ることも可能です。ケーブルカーに乗ると見ることのできない、摂社や遺構を見ることができます。

石清水八幡宮のご祭神は応神天皇と神功皇后、そして比?大神(ヒメオオカミ)と呼ばれる宗像三神、この神様たちは総称して「八幡大神」や「八幡神」と呼ばれています。平安時代に大分県の宇佐八幡宮から勧請され、皇室から近くなったことで宇佐の代わりに、伊勢神宮と並ぶ宗廟として信仰されるようになり、八幡信仰が隆盛を極めるきっかけとなりました。以来京都の裏鬼門を守る重要な神社として、王城鎮護・国家安泰の御神徳がある有難い神社として信仰されています。

皇室からも武家からも信仰される八幡大神

御祭神の八幡大神は王城鎮護の要として皇室から崇敬されるだけでなく、武家からも崇敬を集める神様。八幡大神は応神天皇と神功皇后を含む神様であることから、もともとゆかりの深い皇室からの崇敬が篤かったようです。ことあるごとに宇佐八幡宮まで勅使を遣わし、八幡大神にお伺いを立てたり、奉幣をしたりしていたことが記録に残っています。

八幡大神は清和源氏の氏神とされたことから、武家からの崇敬も集めるようになります。石清水八幡宮は清和天皇の御代に八幡大神より下ったご託宣によって建立された神社ですが、清和天皇の流れをくむ源氏一門も全国各地に八幡神を勧請し祭祀しました。源義家が「八幡太郎義家」と自ら名乗るようになったことにより、「勝運」「厄除開運」の神様として広く武家や庶民にも信仰されるようになります。鎌倉の鶴岡八幡宮を建立した源頼朝や、南北朝の戦乱を勝ち室町幕府を開いた足利尊氏も、清和源氏の流れをくむ武将です。

吾れ、都近き石清水男山の峰に移座して国家を鎮護せん

この言葉は八幡大神が下したご託宣。この御神託によって八幡大神は宇佐八幡宮から、石清水の男山へ遷されることになりました。石清水八幡宮に伝わる史料には、神社の縁起について微妙に異なる記述が残っていますが、どれも清和天皇の勅宣によって石清水八幡宮が建てられたことが共通しています。

八幡大神の御神託を受けて、清和天皇は男山に六宇の神殿を建立します。八幡大神は三宇の正殿と三宇の礼殿からなる石清水八幡宮へ、都の鎮護となるため宇佐から遷座してきたのです。石清水八幡宮に伝わる史料によれば、吉兆を示す「男山の山頂に紫雲が立ち上り都を包み込む」という夢を、天皇だけでなく、大臣や諸家までが同じ夢を見たほど、遷座された八幡大神の神威は強く顕れたようです。

母神から御子神へ受け継がれた神威

八幡大神である神功皇后と応神天皇については、日本書紀古事記に記されているものが代表的です。日本書紀には主に神功皇后と応神天皇の事績について、古事記には事績にまつわる伝承などが記されています。記紀に書かれた内容が史実かどうかは別にして、神功皇后と応神天皇が八幡神として祀られる理由がうかがえる内容です。古事記に出てくる息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト)が神功皇后の別の名前。古事記に記された系譜を見ると、開化天皇の玄孫にあたる人物にあたり、その系譜には祭祀に奉斎した事物が比較的多く見られることがわかります。

息長帯比売命の一族は琵琶湖畔の近江国のあたりを基盤にし、同じ地域で勢力を伸ばしていた和邇(わに)氏とともに、開化天皇の御代から皇室と深い関わりを築きあげました。事実、御子神の応神天皇は和邇氏の娘である宮主矢河枝比売(ミヤヌシヤカワエヒメ)と結婚します。古事記では息長帯比売命の系譜を詳細に記して強調することで、その神格が御子の応神天皇へ受け継がれ、さらに神威が増したことを記そうとしたようです。

対照的に記された仲哀天皇と神功皇后

さらに息長帯比売命の神格をあげたのは、夫である仲哀天皇との対照的な記され方です。小国家を統一して大和朝廷をなした崇神天皇や、伊勢神宮の内宮の元になる斎宮を建てた垂仁天皇、大和朝廷の威光を東国や九州まで届かせた景行天皇に比べると、仲哀天皇にはこれといった事績が記されていません。

これに対して息長帯比売命については、全ての願いを叶える如意珠(にょいのたま)を拾ったり、熊襲討伐に際して御神託を受けたりと、信仰に篤いエピソードが多く記されています。その上、熊襲討伐に関するご神託を信じなかった仲哀天皇は、神の怒りに触れ命を落とすこととなるのです。

崇神天皇から仲哀天皇までの数々のエピソードには、神祇祭祀の確立に関わる根本が記されているとする説があります。宮中で祀っていた天照大神を伊勢神宮に祀り、神人分離の基をなしたり、熊襲や蝦夷の討伐に際し伊勢神宮の神威を受けたりと続き、神意に背くと祟りを受け天罰が下るといった伝承が、なぜ神を祀ることが必要なのかということが記されているのです。

石清水八幡宮のもうひとりの主人公「武内宿禰」

石清水八幡宮の本宮には、応神天皇と神功皇后、比?大神の3神のほかに、もうひとり「武内宿禰」が祀られています。境内で唯一本宮内にある摂社が、武内宿禰を祀る武内社です。この一社だけが本宮内にあることを見ても、ほかの摂社とは格が違うことがわかります。

武内宿禰は古事記日本書紀に登場する伝承上の人物。記紀の記述通りであれば、孝元天皇の子孫にあたる人物で、景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇と200年以上にわたって仕えたと言われています。新羅征討の際には神功皇后に従って戦ったことも記されており、神功皇后と応神天皇の双方と深い関わりのある人物です。

現在の学説では実在の人物ではなかったと認識されており、どうして武内宿禰像が生まれたのかは不明ですが、武内宿禰を祖とする一族が現在も続いています。石清水八幡宮の宮司を務める田中家がその一族です。現在の宮司は武内宿禰から数えて58代目を数えます。記紀につながる神祇祭祀を、現在まで途絶えることなく伝えている家柄です。

八幡信仰は寺院なくして語ることはできない教え

皇室からも武家からも崇敬を集めた八幡信仰は、宇佐八幡宮の時代から寺院と切っても切れない深い結びつきを持っていました。
八幡神は仏教でも八幡大菩薩として祀られたことで、実に明治時代に入るまで長い間人々から崇敬を集められたと言っても過言ではないでしょう。
実際、石清水八幡宮もその前身には石清水寺という寺院の存在が認められています。
神仏分離で寺院と切り離された八幡神ですが、その教えの最たるものは「分け隔てなく」受け入れることなのかもしれません。

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