西洋画

アンリマティスという芸術家の人生

2018-02-08

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自然を芸術の対象とし、美しい色彩を用いて名作を描き続けた画家が、アンリ・マティスです。アンリ・マティスは、フランス生まれの画家であり、野獣派というグループで活躍をしていた有名な画家です。

色彩の魔術師などと呼ばれていたように、緑を中心として非常に美しい作品を多く描き続けてきたことからも、今も尚、自然をモチーフとした作品を描いている画家たちから崇拝されています。今回、ここでは「アンリ・マティス」とはどのような画家だったのか、その人生を追っていきたいと思います。

穀物商人の子ども

アンリ・マティスは、穀物商人を営んでいた一家の長男として生まれています。フランスの最北部とも言われている、ル・カトーカンブレジという村に生まれており、豊な生活を送っていたことで知られています。

家族は、その後にボアン=アン=ヴェルマンドワという場所に引っ越しており、アンリ・マティスは幼少期のほとんどをこの場所で過ごしています。

画家への道

当時、マティスは父のすすめで裁判所の管理者の資格を取得するために、遠くパリへと向かっていました。しかし、彼にとってパリという街は全てが新鮮であり、そして刺激的でした。たまたま、盲腸炎を患ってしまったことから身動きが取れず、母から画材が送られてきたと言います。

この時、彼が残した言葉としては「楽園のようなもの」を見つけた、というのです。盲腸炎、そして慣れないパリという地で心細かったこともあってか、この絵画という道に希望と癒し、そして夢を見つけたのかもしれません。当然ながら、マティスが裁判の管理者から画家になる、と言い出したことには父は失望し、恐らく当分の期間は良い関係を築くことができなかったのではないでしょうか。

熱烈な意欲

画家を目指すことになったマティスは、その後に私立美術学校であるアカデミー・ジュリアンへと入学しています。しかし、ここで絵画を学びつつ、名門であるエコール・デ・ボザールへの入学を夢見て日々努力を続けることとなります。

ただし、エコール・デ・ボザールへの入学をなかなか許されることが無く、マティスは落胆してしまいます。

とはいえ、非常に熱意を持っていたことからも、教官ギュスターヴ・モローに認められ、学校に入学した訳ではないのですが、手厚い個人指導を受けることを可能にしたのです。このことからも、マティスが絵画への道に進みたい、ということは生半可な気持ちではなかったことが、容易に想像できるのではないでしょうか。

自由な色彩への傾倒

マティスは、写実的な世界観をキャンパスの中に落とし込んでいました。マティスの表現する世界は、見たままのものを、見たように描くというようなものです。

しかし、ゴッホやゴーギャンなどといった、後期印象派からの影響を強く受けるようになり、徐々にレアリスムに縛られることのない、自由な色彩を描くことに強い興味を受けるようになってきます。結果、マティスが選んだ道は後期印象派のような、自由で楽しい色使いであり、これがきっかけで「色彩の魔術師」というマティスの画家人生がスタートするわけです。

野獣派の時代

ゴッホのように、自由な色彩と現実、そしてやや抽象的な印象を与える作品にマティスは傾倒していきます。大胆な色彩を使った、フォーヴィスム、いわゆる野獣派というグループをつくるようになっていきます。

当時、モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドランなどの有名画家たちと共に、グループで活動をしていたものの、徐々にマティスの心は躍動感溢れた作品から、静的なものへと傾倒していきます。

結果的に、マティスが野獣派を牽引していたのは3年間程度であり、それからはまったく雰囲気の異なった作品を出すようになったのです。しかし、野獣派として話題をかっさらい、さらには大活躍をしていたマティスだけに、人々の印象としては野獣派の荒々しい色彩の使い手、というものでした。

彼自身、そういった評価を受けることに酷く傷ついていたようで、「私は人々を癒す肘掛け椅子のような、そんな絵を描きたいだけ」という言葉を残しているともいわれています。

ハサミを利用した作品

通常、画家はキャンバスに水彩画、パステル、油彩など、こういった手法で作品を作っていきます。マティスの発想はとても自由で、色彩をより自分らしく表現することを追求していった結果、切り絵という手法に辿り着いたといわれています。

「ジャズ」シリーズが、マティスの作品の中ではよく知られているところですが、ハサミを使用した今までに無い、新しい作風に常にチャレンジし続けていたことが、ここからも推測されるのです。

徐々に名声をあげていったマティスは、ドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂のデザインや、切り紙絵をモチーフにしたステンドグラスなどを発表。キリスト教美術としては、20世紀最高の芸術家であるなど、こういった賞讃の声を浴び続けることとなっていったのです。

自然環境を取り入れたアトリエ

マティスは、キリスト教などの宗教的なものと芸術を掛け合わせた作品を多く生み出していますが、彼自身はとても自然に興味を持っていたことで、そのアトリエがユニークであった、ということでも有名です。

とても大きな観葉植物を部屋中に置いたり、テーブルの上を多様な花で埋め尽くすなど、自然環境の中で作品を生み出しているかと錯覚するような、ある意味で植物園がアトリエのような、そんな空間を演出していたというのです。

また、自然環境好きがこうじてか、なんと鳥を300羽飼っていた、というのですからさらに驚きです。

ピカソの親友

20世紀最高峰の芸術家といえば、誰もがピカソの名を思い浮かべると思いますが、このピカソとマティスは親友であり、そして生涯の友人であった、ということで知られています。

マティスは、自然を愛していたのですが、ピカソは空想世界を主体として描いています。しかし、愛人であったり、妻であったり、女性をモチーフとして描くという部分は双方に共通する部分であり、結果的に互いの才能に惹かれ合うようになっていきます。

ガートルード・スタインにアリス.B.トクラスなど、当時の有名コレクターが開催するパーティーで出会うことのなった二人ですが、その後も「27 rue de Fleurus」という社交会にて毎回出会っていたといわれています。

カットアウト作品

晩年、マティスは腹部のがんを診断されると、油絵ではなくハサミを使ったカットアウトという技法の作品を多く造ることになります。

そのため、殆どの生活をベッドで過ごすことになってしまいます。アシスタントに適当に絵の具で書いてもらった紙を自らカットアウトし、それらを貼付けるという作業を繰り返すことになります。

ハサミを使う、ということで体全体、神経を使うことがとても良い作用になり、その時々の神経状態を作品に投影することができるようになっていきます。

このカットアウトという技術をメインとし始めた時、最初は小さな作品群しか作ることができませんでしたが、徐々に大きな作品となっていき、最終的には3メートルを超える大作を仕上げています。

マティスの功績

マティスの死後、あのアンディ・ウォーホールが、「マティスになりたかった」と言っているように、後世の芸術家たちに多大なる影響を与えました。20世紀において、大変重要な芸術家として今もなお、多くの芸術家に影響を与え続けているのです。

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