西洋画

フランスの最重要芸術家、ドラクロワの人生とは!?

2018-02-09

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有名アーティストたちのデザインモチーフで知られている、「民衆を導く自由の女神」。「自由とは何か」について、深く考えさせられる、今生芸術の中でも重要な作品のひとつでもありますが、この作品を描いたのが、「ウジェーヌ・ドラクロワ」という人物です。

本名「フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ」であり、ドラクロワの名前で親しまれています。

フランスの19世紀を代表するロマン主義の芸術家ですが、彼は一体どのような人生を送ってきたのでしょうか。今回、ここではフェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワの人生を追っていきたいと思います。

フランスで生まれたドラクロワ

ドラクロワが生まれたのは、パリの郊外にシャラントンという街です。1798年、1800年という節目に差し掛かろうという時代に、このドラクロワは生まれています。

父親が外交官シャルル・ドラクロワということで知られており、生活自体は大変裕福であったと見られています。若かりし頃から芸術家を目指していたドラクロワは、新古典主義で知られていた、画家ピエール=ナルシス・ゲランに弟子いりします。

当時から才能に優れていたドラクロワは、強い推薦を受けてサロンへと出展。見事、入選を果たしてプロの画家としての人生を歩み始めました。

賛否両論を巻き起こす

ドラクロワの力強い筆致や、描写などが評価を高めていきますが、1824年にサロンへと出品した「キオス島の虐殺」という作品が物議を醸します。

この2年前に、実際に起きた大虐殺の事件をモチーフにしていたこともあり、それは大変注目を集める一方で、「絵画の虐殺」という酷評を浴びるなど、よくも悪くも大きな話題となった、ということは確かです。その後、「キオス島の虐殺」は政府によって買い上げられていることからも、結果的には芸術作品とした高く認められた、ということになるのではないでしょうか。

七月革命

ドラクロワの人生を大きく左右するキッカケとなったのが、1830年の七月革命です。この七月革命の時に、あの「民衆を導く自由の女神」を作成しています。

実は、この作品を描く前に、イギリスで芸術活動をしていたり、政府から厳しく「画風を変化させてほしい」などの要望を受けたり、舞台衣装のデザインなど、ドラクロワの芸術活動に大きな変化がありました。

今までの強い筆致などはもちろんですが、政府に買取してもらうなど、芸術活動を続けていくための費用捻出など、芸術家としての葛藤に苦しんでいた時期だ、ともいわれています。そんな中、この作品が素晴らしい評価を獲得することになり、政府が買い上げ、後にドラクロワはレジオン・ドヌール5等勲章を授与されることにもなったのです。

モロッコ訪問

ある種、政府のお抱えの芸術家でもあった、ドラクロワはその功績が認められることで、外交使節に随行する記録画家という立ち位置でモロッコへと訪問しています。

その後、ドラクロワが発表している「アルジェの女たち」は、大変有名な作品として知られているのですが、このモロッコへと行った時の作品である、ということで知られています。

政府の期待に応え続けたドラクロワは、リュクサンブール宮殿、パリ市庁舎など、公的な場での装飾も多く手掛けています。結果的に、彼の手掛けた作品の多くは、永遠に残される文化遺産となっていき、パリをパリたらしめる、そんな外観が彼の手によって生み出されていったのです。

ドラクロワは、その後作品を晩年になるまで描き続けたことでも知られており、1863年に最後を迎える直前まで制作活動を続けていたことで知られています。

有名画家に影響を与えた

ドラクロワは、数多くの芸術家に影響を与え続けた画家、ということでも知られています。今までには無かった、新しいアプローチでの色彩表現などは、数多くの芸術家たちに強い影響を与えており、ルノワールやゴッホなど、世界に名立たる芸術家たちが多大なる影響を受けた、とされています。

貴重な日記

ドラクロワを語る時に、多くの人たちは彼の日記について注目をしています。1822年から付けられ始めた日記ですが、途中頓挫はしたものの、1863年の死去するまで描き続けられたというのですから、驚きです。

ジョゼフィーヌ・ド・フォルジュ男爵夫人、ショパンなど、歴史上非常に重要な人物たちとの会話なども収められており、当時のパリや芸術界などを探るための、貴重な資料として現在でも重宝されています。この日記自体は、出版されており、何度か改訂が続けられ、現在では「Jose Corti」から刊行されています。

ドラクロワという人物

ドラクロワは、斬新な構図や色彩使いなどで、多くの画家や芸術家たちに影響を与えた重要人物です。しかし、政府のお抱えとなるように、大変順応性が高く、知的で精神的に高次な感覚を持っていた人物である、ということも推測されます。

今後も、ドラクロワのさまざまな情報は改訂されていき、新たな作品も見つかるかもしれません。今後、ドラクロワについて探求するのも、面白いのではないでしょうか。

フランスを知るためのきっかけに!ドラクロワが描いた作品の解説

「民衆を率いる自由の女神」で知られている、画家が「ウジェーヌ・ドラクロワ」。フランス芸術にとって、切っても切れない重要な存在であるウジェーヌ・ドラクロワは、ドラクロワとして親しまれており、さまざまな戦をモチーフとした作品を生み出し続けたことで知られています。今回、ここではそんなドラクロワが生み出し続けた作品をいくつか解説していこうと思います。

ダンテの小船 (地獄の町を囲む湖を横切るダンテとウェルギリウス)

深みのある暗いタッチが特徴的な、「ダンテの小船 (地獄の町を囲む湖を横切るダンテとウェルギリウス)」。ドラクロワ最初期の傑作として知られている、注目の作品です。

「神曲」という、詩人ダンテ・アリギエーリの代表作の一説をモチーフとしていた作品で、第8歌の場面と言われています。若干24歳という驚きの若さで描かれている作品であり、人々を描く筆致の力強さに注目です。

堂々とした作品ではありますが、残虐さを切り取っている、という挑戦的な作品でもあるために、新古典主義の批評家ドレクリュースには批判されています。一方、高い評価も獲得しており、最終的には政府が買い上げたという異色の作品でもあります。

ダンテとウェルギリウスという人物が、地獄の川を下っていく、というシーンが描写されているのですが、海の中に引きずり込もうとしている死者の存在感に注目です。色使いによる明暗がはっきりと分かれており、その体は彫刻のように隆起した、生気が無い独特な雰囲気を醸し出しています。新古典主義的表現では、今まであまりない恐々とさせるこの描写が話題となり、賛否両論を巻き起こしたのです。

ミソロンギの廃墟に立つギリシア (La Grece sur les ruines de Missolonghi)

中心に美しくも凛々しい姿の女性が立っている、「ミソロンギの廃墟に立つギリシア (La Grece sur les ruines de Missolonghi)」。

この人物は実際に存在していた人物ではなく、ロール嬢という人物をモチーフとしているそうで、ギリシアを象徴化した擬人像と言われています。

この作品は、ギリシアの独立戦争にインスピレーションを得たものであり、イギリス出身の詩人であるジョージ・ゴードン・バイロンが戦死してしまった、そんなシーンが選ばれています。古代ギリシア文化における物理的の崩壊、そして前述したジョージ・ゴードン・バイロンとの対比の効果を演出している、とされています。

この擬人化なのですが、『民衆を率いる自由の女神』へ通じる重要な作品として知られておリ、独創的ながら、破壊的であり民主主義を訴える人々の強い志を感じさせる作品となっています。

キオス島の虐殺 (Scenes des massacres de Scio)

ドラクロワの人生大きく変えた、重要な作品として知られているのが、「キオス島の虐殺 (Scenes des massacres de Scio)」です。

聖書の一部をモチーフとする作品が多い中で、オスマン・トルコの政治的支配に抗うギリシア独立戦争の実話をモチーフとした作品で、その姿が繊細に描写されています。虐殺的行為をなまなましく投影した作品となっており、空虚な顔つきのキオス島の住人が印象的な作品です。

あまりにも、リアリティの高い作風にアントワーヌ=ジャン・グロなども、厳しい批判をしたほどでした。フランス古典主義の巨匠ニコラ・プッサンに強い影響を受けていた、ということで知られており、色濃く筆致からその影響を伺い知ることができます。

賛否両論を巻き起こした作品ではあったものの、サロンへの入選を果たした後、結果政府が買い上げとなったことで、ドラクロワの名声が上がっていくきっかけとなっています。

白い靴下の裸婦(白靴下の女)

裸体の女性を妖艶に描いた、「 白い靴下の裸婦(白靴下の女) (Femme aux bas blancs)」。赤いカーテンの中心にベッドがあり、そこに裸体と白い靴下を履いた女性が横たわっている、何とも官能的な作品となっています。

独特の配置となっていることからも斬新であった、ということで知られている作品で、女性の体も非常に繊細に描かれていることで話題となりました。この作品で注目されているのが、ドラクロワの描く対角線的配置です。

左から対角線状に女性の脚が流れるように、沿っている姿が独創的である、ということで話題となりました。

赤と白、そして肌色、黒といったごくシンプルな色彩でありながらも、その陰影や独特の色彩感覚を取り入れたものとなっており、色彩の魔術師と呼ばれたドラクロワならではなのです。

サルダナパロスの死(サルダナパールの死) (La mort de Sardanapale)

「サルダナパロスの死(サルダナパールの死) (La mort de Sardanapale) 」は、ロマン主義のドラクロワらしい描写で描かれた作品です。惨殺されているような、残酷なモチーフということで、ドラクロワの作品上、最も賛否両論を呼んだ作品です。

詩人ジョージ・ゴードン・バイロンの詩集にインスピレーションを得た作品であり、反乱軍の謀略により失墜する主の最後が描かれている、印象的な作品です。

王の快楽のために用意された馬や女性たちが、民衆によって殺害されるなど、猟奇的な快楽性を描いたことで批判を浴びます。

しかし、火葬される処刑台や布、そしてひとりひとりの表情、さらに叙情を表現させた印象的など、新古典主義の持つ保守的な様式を壊したことで、後世に残されました。

さらに、ユニークなエピソードとしては、政府美術大臣から「この先も画家としてやっていきたいのであれば、こういった作風はもうやめた方が良い」と指摘され、それに従った、という問題作でもあるのです。

民衆を率いる自由の女神−1830年7月28日 (La Liberte guidant le peuple - Le 28 juillet 1830)

ドラクロワの作品として、多くの人々が印象強く脳裏に焼き付いているだろう、作品のひとつが「 民衆を率いる自由の女神−1830年7月28日 (La Libert? guidant le peuple - Le 28 juillet 1830)」です。

国王シャルル10世が言論の自由を奪う勅令をきっかけとして起こる、7月革命がモチーフとなっているのですが、自信が体験したものを具現化したと言われており、歴史的価値が高い作品であるとして政府買い上げとなっています。

中心に力強く右手を当てながら、争いの暗い影に光をもたらす存在となっている女性。フランスの国旗を高々と掲げ、さらには民衆も力強く自由を勝ち取りたい、というイメージを感じさせる、後世に残すべき作品です。

この戦いの後、ルイ18世のブルボン朝は失脚、そしてブルジョワ級のルイ・フィリップが王に。民衆が戦うことで自由を手に入れることができる、ということで、ベルギーやイタリア、ポーランドなどの民族運動などのキッカケとなった、とされています。

この作品は、スペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤが描いた、エジプト人親衛隊との戦闘に影響された、といわれています。

ドラクロワで時代を知る

ドラクロワの作品に注目すべき理由としては、フランス、パリの歴史を紐解く作品が多くあるということです。彼自信が体験したことをモチーフとしたり、さまざまな歴史的な経験を芸術へと昇華させています。

ドラクロワの作品を知る、追いかけていくことで、数多くのフランス歴史も紐解くことができるのです。ぜひ、出会うことができる機会があれば、ドラクロワの作品をその目で鑑賞しましょう。

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