西洋画

世界的芸術家「レオナルドダヴィンチ」という人物とは?

2018-02-09

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芸術家、という行きを超え、人物としても崇められているイタリアのルネサンス期を代表する人物が、レオナルドダヴィンチです。

レオナルドダヴィンチは、レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチという本名を持っており、芸術家というだけではなく、物理学から地理学、そして音楽家などさまざまな顔を持っている万能人としても広く知られている存在です。

今回、ここではそんなレオナルドダヴィンチの知られざる人生について迫っていきたいと思っています。ぜひ、参考にしてみてください。

芸術家の家系では無かった

レオナルドダヴィンチの偉業は凄まじいもので、恐らく世界中で彼の名を知らない人はいない、とすら思われるほど有名な人物です。

そのため、さぞかし素晴らしい芸術一家に生まれたのだろう、と思われているのですが、実はイタリアの小さな街の生まれであり、幼少期から芸術に触れていたわけではなかったのです。ラテン語をはじめ、幾何学や数学などを習っていたこともあり、学問の道を歩もうとしていた、ということだけはわかっているようです。

14歳の転機

レオナルドダヴィンチは、青年期に入る前はさほど芸術に触れていたわけではない、ということがわかっています。

しかし、14歳の頃にアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入ってからというもの、そこで彫刻や、絵画などを習い続けていた、ということでも知られています。その頃から、非常に勉強熱心だったレオナルドダヴィンチは、なんと芸術家としてだけではなく、機械工学にも強い興味を示し始めたことでも知られています。

芸術世界における探求

一般的には、絵画や彫刻を行う人間というのは、絵画やそれら芸術世界に飛び込んでいったら、恐らく殆どが古典などの勉強や絵画技術、さらには有名な芸術家たちの批評に走っていくのが殆どです。

しかし、レオナルドダヴィンチという男の場合、そういった芸術世界を深く知るためには人間や機械工学などの根源を知らなくてはならない、という思いがあったのか、どんどんさまざまな学問へと、突き進むようになります。

レオナルドダヴィンチの注目すべき作品の多くは、人体画などが多いようですが、それらも医学的な検知から作品を描いたわけではなく、全ては彼の人間への探求心がそうさせた、ということが考えられるのではないでしょうか。

不起訴からの個人活動へ

レオナルドダヴィンチは、工房で働きながら、20歳という若さで親方として認められていたことからも、大変優秀で才能が秀でた人物であった、ということがわかります。

既に、さまざまな作品や、その物言いや態度などが常任を超えていた、ということがわかるエピソードです。しかしながら、レオナルドダヴィンチは同性愛者でもあったと言われており、24歳の頃に同性愛における罪で第一線から姿を消すこととなります。

カトリックが台頭していたレオナルドダヴィンチのいた環境では、同性愛は許されることではなかったのです。しかし、このレオナルドダヴィンチが才能を開花し始めたのは、それか数年後の修道院からの依頼です。

「東方の三博士」をモチーフに作品を描いてほしい、と懇願されたことから、レオナルドダヴィンチの個人での創作がスタートします。

ただし、工房で働いていた頃から天才と呼ばれていたレオナルドダヴィンチなのですが、この作品を仕上げることはなく、そのままそのミラノへと旅だってしまった、という記述があります。天才は天才らしく、非常に自由きままな人生を送っていた、ということがわかるエピソードです。

ミラノからヴィネチアの時代

レオナルドダヴィンチが最も人生で功績を遺した、といわれているのがミラノ時代です。30歳から47歳という、長い時期にこの地で新しい人生をスタートさせたレオナルドダヴィンチですが、最後の晩餐など有名な作品をこの頃に仕上げています。

フランチェスコ・スフォルツァの騎馬像など、今でも大変貴重な作品として遺されているものも、時間がかかっていながらもこの頃に作られていたことで知られています。

しかし、この頃は戦時中でありフランス軍などから攻め込まれてきた、そういった不穏な時代でもありました。そんな頃、レオナルドダヴィンチは親しい人物たちとミラノを離れ、ヴェネチアに逃げ込んで来たことで知られており、戦時中だったミラノで傷を追うことはなく、生き抜いたと言われています。

その後、ヴィネチアに戻ったレオナルドダヴィンチは、「聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ」などの素晴らしい作品を生み出しており、今もなおその作品は多くの人たち間で神がかった作品である、として重宝されています。

街の設計を託される

レオナルドダヴィンチ芸術家として名声を高めていたレオナルドダヴィンチですが、設計士としても大変素晴らしい仕事を後に成し遂げています。

当時、教皇の息子として知られていたチェーザレ・ボルジアからの仕事の依頼により、イタリアを軍事技術者として雇用され巡ることとなります。この頃、街の設計をレオナルドダヴィンチが託されていた、と言われており、イーモラという街の都市計画図を作成しています。

当時としては、他にかえようの無い素晴らしい出来映えであったことからも、多大なる評価を得ていた、ということがわかります。そして、この頃にかの有名なあの『モナリザ』を書き上げていたこともわかっており、さまざまな仕事を遂行しながらも、あの世紀の傑作を描き上げていた、ということに驚嘆するのです。

「最後の晩餐」とレオナルドダヴィンチ

レオナルドダヴィンチの名作のひとつといえば、なんといっても「最後の晩餐」です。これは、フレスコ画をベースに描かれている作品ですが、壁に漆喰を塗った後、乾ききる前に顔料で描くという高い技術力が試される作品のひとつとして知られています。

この作品自体は素晴らしいものですが、重ね塗をすることができないことがネックであったため、レオナルドダヴィンチはオリジナルの方法として、乾いた漆喰の上に乳化剤で膜を造り、その上から描くという斬新な技法を用いて「最後の晩餐」を仕上げたということで知られています。

しかし、湿度が大変高かったという悪列な環境であったために、大変絵の損傷が早く、世界で最も素晴らしい作品でありながら、最も損傷が酷い作品とも言われている物議を醸し出した作品となったようです。

そして、その後に「アンギアーリの戦い」という作品を生み出しますが、結果的には途中で失敗したことで中央部分が残り、他の画家が修復して制作した作品として生まれました。

中央部だけであっても、大変素晴らしい作品となっており、レオナルドダヴィンチという非凡な才能が、常に最大の力を使って挑戦をし続けていたことがわかるのです。

天才の人生を作品で追う

レオナルドダヴィンチの人生を語る時、彼の素性や生まれ、そして性格などは本当に意味があることなのか、と思わせる素晴らしい作品と功績があります。

彼は、全てを芸術に昇華させていった大人物であり、大芸術家です。また、レオナルドダヴィンチの人生を知る機会があれば、作品を追い続ける、という方法も良いのではないでしょうか。

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