日本画

艶やかな女性美を描いた黒田清輝の西洋画 新しい芸術を広げた巨匠の功績

2018-03-07

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「マンドリンを持てる女」東京国立博物館蔵

日本に西洋画を広げた人物代表が黒田清輝です。当時、あまり西洋画になじみがなかった日本人にとって黒田清輝の裸体表現は、衝撃でした。反発を受けながら日本人に西洋画の魅力を伝え続け、多くの画家の見本となった黒田清輝の功績と艶やかな女性の絵について詳しくご紹介していきます。

黒田清輝の西洋画の魅力とその技法

「裸体」島根県立石見美術館蔵

日本に西洋画を広め歴史を作った人物が黒田清輝といっても過言ではないでしょう。当時、黒田清輝の絵は、日本中に物議をかもすほど話題になったといいます。それだけ彼の絵が人の心を惹きつけるものであったからでした。

裸体表現は、今では珍しいものではありませんが、当時の日本人には衝撃が大きかったようです。しかし、徐々に黒田清輝の絵は人々に理解されていきます。「裸体」は、黒田清輝の初期の頃の作品と言われています。この絵の右下部分には「私の友藤島へ 心からの思い出を込めて」とフランス語で書かれています。

ここに書かれた「藤島」は、藤島武二ことで黒田清輝の友人で同じく西洋画家として活躍し、黒田清輝がフランスから帰国後ともに活動を続け、後に東京美術学校助教授になった人物です。

「祈祷」東京国立文化財研究所蔵

「祈祷」は、黒田清輝がフランス・パリにいた時、アメリカ人の友人に誘われ日曜の教会へ顔を出した時の光景を描いています。胸の前に手を組んでうつむき気味に祈りを捧げる少女の絵ですが、この絵に黒田清輝の宗教感情はなく純粋に少女の祈祷を描いているところに清潔な印象を与えているようです。

「春の女神フローラに扮したサスキア」レンブラント筆 エルミタージュ美術館蔵

また、「祈祷」は、全体の色調を褐色にし、白い洋服の細かい描写にまでこだわりが見える点でも彼の画力が優れていることが分かります。黒田清輝がレンブラント作品を強く意識して描いていることがわかる作品のひとつです。

そして、フランスから帰国後、日本人に大きな衝撃を与えた絵「朝妝(ちょうしょう)」を発表しました。

「今度都にて卒業試験のような心持ちにて日本へのお土産のため当地名物の女のはだかの画一枚心に任て描き申度存候 小さな考えへをしている日本の小理屈先生方へ見せて一と笑ひ仕度候」

フランスから帰国直前の黒田清輝が父親に向けて書いた手紙に「朝妝」のことが記されています。黒田清輝の日本への西洋画を広げる動きはここからはじまっていきます。

仲間同士の酒宴での愚痴から生まれた新しい組織

フランス帰国後、黒田清輝は、洋画団体である明治美術会に入ります。その中には写実的な画風の浅井忠、原田直次郎、小山正太郎らがいました。外光表現をとりいれた印象派の黒田清輝、久米桂一郎らの画風と彼らの画風には、はっきりした違いがありました。

「農夫帰路」浅井忠筆

しだいに浅井忠らの画風を「旧派」、黒田清輝らの画風を「新派」と呼ばれ対比されるようになります。新派と呼ばれた黒田清輝たちは、規則づくめで官僚的な明治美術会に対して抵抗を抱きはじめ、仲間同士の酒の席で愚痴を言い合い、不満を解消していたといいます。

そんな酒宴が繰り返されるうちに黒田清輝ら新派と呼ばれた人たちは、とうとう明治美術会を脱退し、「白馬会」という新しい団体を作りだします。「白馬会」の名称は、彼らの酒の席でなれ親しんだ濁り酒の俗称「シロウマ」からとったそうです。

「頃日世の旧派と目する小山正太郎、山本芳翠、新派と俗する黒田清輝、久米桂一郎諸氏の間に起りぬ、終に我々は同感の士と精神的な結合を為して、此目的を達すべしところも新団体は生まれぬ(後略)(明治29年5月27日毎日新聞より)」

このように、当時の毎日新聞に「白馬会」結成のことが大きく報じられました。この記事の続きには、白馬会には役員もなければ会則と明記したものはなく、自由主義で自由平等であると書かれています。

つまり、白馬会は明治美術会と対立する団体ということです。その後、白馬会には、新旧両派の画家、文学界からも森鴎外、高山樗牛ら、ジャーナリストを含めた42人が参加したことが黒田清輝の日記に綴られていたといいます。

黒田清輝 白馬会から政界へ さらなる功績をあげていく

明治29年(1896年)第一回白馬会展が開催されました。同年5月には、東京美術学校に西洋画家が新設され黒田清輝は、講師に任命されます。そこからも白馬会の活動はつづき、明治40年(1907年)には第一回文部省美術展覧会(文展)が開催されるようになります。

文部省が主催する美術展覧会には、日本画、西洋画、彫刻などが展示されました。このような公認の展覧会の準備段階から黒田清輝は参画し、審査員を務めるようになります。

西洋画にも大きく目を向けられるようになり、公認の美術展覧会創設で制作発表の場所が、しだいに文展に向けられるようにもなりました。このことで白馬会の結成当初の目的が達成され文展と同じような展覧会を開くことは重複になるのではと考えた末に「白馬会」は解散されます。

大正3年になると、文展からわかれて有島生馬、石井柏亭らが二科展を結成し、日本美術院では、洋画部が新設されるようになります。そして、文展もまた総合性を失い改革が必要となっていきます。

そこで、政府は黒田清輝と相談し大正8年(1919年)美術審査員会を廃止することにします。それに加えて、大きな美術行政機関として「帝国美術院」を設置し、院長に森鴎外を就任させ、洋学部の会員に黒田清輝らが入ることになりました。

翌年には、黒田清輝は子爵議員になり、さらに宮内省御用掛(宮内庁が任命する非常勤国家公務員)、大正10年(1921年)には、内務省社会事業調査会委員、外務省情報部嘱託、臨時行政政調査会に任命されます。黒田清輝は、美術行政家としての任務に追われ忙しくなっていきます。

また、大正11年(1922年)には、森鴎外が亡くなったため黒田清輝が帝国美術院長に就任し、その翌年には、日本工芸協会が設立されたこともあり、ここの総裁に就任することになります。多忙の末、大正13年に59歳の若さで黒田清輝は亡くなりました。

黒田清輝の人柄や絵の技量が優れていたことなどを含め、彼の日本美術史における功績は大きく今も語り継がれています。

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