日本史

豊臣秀吉 天下統一トーナメント〜飼い猿から天下人へ〜

2018-03-08

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歴史に全く興味が無い人でも猿こと豊臣秀吉が天下を取ったという話を学校やメディアなどで一度は耳にしたことと思います。伝わる秀吉像は、頭が禿げ上がり顔は醜く、身長は低い。おまけに指が6本あるなど特殊すぎる外見をしていたそうです。

ですがその代わりに、人の心の奥底を読み、人の欲の満たし方を知る、天性の人たらしの才や、降伏してきた敵と丸腰で対面するなど、度量の面で他を圧倒していた秀吉。

しかし尾張(愛知県西部)の極貧農家の生まれだったという秀吉がなぜそんな身分から100年以上続いた戦国時代を終焉に導くことができたのか、秀吉の従軍した合戦を追って見て行きたいと思います。

豊臣秀吉とは

秀吉は天文6年(1537年)3月7日に尾張国中村(名古屋市中村区)にて木下弥右衛門と母・なかとの間に生まれました。幼い時は秀吉ではなく「日吉丸」と呼ばれていました。

弥右衛門は秀吉が小さい時に亡くなり、なかは再婚しますが、秀吉は継父と折り合いが悪く家出し、針売りなどをしながら諸国をさまよっていたと言われています。ちなみに秀吉の弟の秀長は、継父となかとの間に生まれました。

そんな秀吉が木下藤吉郎を名乗り、一番はじめに仕えた主君は織田信長…ではなく、今川義元の家臣の家臣である松下之綱(ゆきつな)でした。秀吉は目をかけられたそうですが、ほどなく松下家を去るのでした。

松下家を去った秀吉は天文23年(1554年)頃から織田信長の小者として仕えることになります。信長の冷たい草履を懐に入れて温めておいたエピソードはこの時のものです。些細なことに気が利く秀吉は信長に重用されるようになっていきます。

そんな中、永禄4年(1561年)8月、足軽組頭となった秀吉は、生涯のパートナーとなる正室・おねを嫁に向かえます。このころから「木下藤吉郎秀吉」を名乗り、織田家で徐々にのし上がって行くのです。

信長家臣として〜奇策を得意とする木下藤吉郎秀吉〜:稲葉山城攻略戦 VS斎藤龍興「一夜で城を築いた、墨俣一夜城」

信長の養父である斎藤道三が息子である義龍に討たれて後、織田家と斎藤家の関係は悪化していました。そんな斎藤家も義龍が亡くなり、現在は道三の孫の龍興が美濃国(岐阜県南部)を支配していました。

稲葉山城は堅城であり、闇雲に攻めても落とせるものではない…。そこで信長は長良川西岸の墨俣の地に出城を築こうと、譜代からの家臣である佐久間信盛と柴田勝家に任せましたが斎藤勢の妨害に遭い悉く失敗。そこで名乗りを上げたのが秀吉でした。ならば築いてみよと信長は一切を委ねます。

秀吉が予め加工した材木を長良川の上流より流し墨俣の地でそれを組み立てるとあら不思議、城ができてしまいました。その城は後世「墨俣一夜城」と呼ばれ、稲葉山城攻略に大いに貢献しました。

そして永禄10年(1567年)9月、斎藤氏の居城である稲葉山城は織田軍の手に落ち、信長はこの城を「岐阜城」と改め自らの居城とし、天下布武に邁進するのです。もちろん秀吉もこの戦で名を高めたことはいうまでもありません。

観音寺城の戦いVS六角義賢・義治親子「相手の虚を突いた夜襲攻撃」

永禄11年(1568年)9月、信長を頼ってきた室町幕府将軍・足利義輝の弟である足利義昭を奉じた織田軍は上洛のために近江国(滋賀県)を通過しようとしました。そこで待ったをかけたのが近江守護である六角義賢・義治親子でした。

六角軍は本拠の観音寺城の他、和田山城、箕作城に兵を入れ迎撃態勢を取りました。観音寺城は防備が弱いものの、それを守る和田山城、箕作城は堅固でした。

信長は軍を3隊に分け、稲葉一鉄率いる第一隊を和田山城へ、柴田勝家と森長可率いる第二陣を観音寺城攻略に。そして部隊長になっていた秀吉はじめ、丹羽長秀、滝川一益を率いた信長率いる第三陣が箕作城攻略に向かいました。

信長率いる第三陣が箕作城を攻めますが難攻不落で知られた箕作城はそう簡単に落ちるものではありません。そこで秀吉の隊は夜襲を決行します。昼間戦ったばかりで疲労困憊の織田軍が攻撃してくることはないだろうとタカを括っていた六角軍はまさかの夜襲に狼狽し夜明けを待たずに箕作城は陥落してしまいました。箕作城の陥落を知った和田山城も戦わずに開城。

あっけなく両城の陥落を知った六角親子は観音寺城では敵を防げないことを悟り甲賀(三重県西部)に逃亡し、近江を抜いた信長は見事上洛を果たし、足利義昭も亡き兄・義輝の後を継いで15代将軍に就任したのです。

大河内城の戦い VS北畠具教・具房親子「伊勢攻略戦」

永禄12年(1569年)、北伊勢(三重県北部)の神戸具盛に信長の三男・信孝を養子に出すことで降した信長は、南伊勢の北畠家を討つために出陣しました。

秀吉は北畠親子の本拠・大河内城の支城である阿坂城の攻略を担当し見事落城。
北畠家と和睦した信長は次男・信雄を養子に入れ、実権を委譲させることにより北畠家の南伊勢を降したのです。

金ヶ崎の退き口VS朝倉義景「殿軍から見事に生還した秀吉」

元亀元年(1570年)、越前国(福井県中東部)の朝倉義景を成敗するために出陣した織田・徳川連合軍は連戦連勝で朝倉軍は苦戦を強いられていました。

そこに一報が舞い込みました。その一報とは、「浅井長政離反」というもの。浅井長政は北近江一帯を勢力下に置き、信長の妹・お市の方の嫁いだ義弟でした。
そのためか、初め信長はその報告を信じようとはしません。

しかし次から次へと舞い込む知らせに信長も真報と判断し朝倉攻めを断念し撤退を決意します。なぜなら朝倉家の越前は北近江を通過しなければ攻めることができず、浅井家が離反したということはすなわち退路を断たれたことに他ならなかったからです。

そこで白羽の矢が立ったのが秀吉でした。信長は命じます。殿軍となって死んでくれと。殿軍(しんがり)とは撤退の際に本隊を逃がすため最後まで戦場に踏みとどまる隊であり、極めて生還率の低いお役目でした。猿は応えました。必ずお役目果たして見せましょう。…と。

他にも殿軍には摂津(大阪府北中部及び兵庫県東部)守護の池田勝正、明智光秀が務めることになりました。ここからの信長の撤退は早く、敵地となった浅井領を越え、信長は無事に京まで撤退することに成功しましたが、周りにはわずか10人ほどの供回りしかいませんでした。

信長ですら供回りがわずかしか残らなかっただけあり、殿軍を務めた面々も無事に逃げ切ることはできたものの兵力は激減しており、逃げ切れたこと自体が凄いことでした。信長は秀吉の功に報いるために黄金数十枚を与えたと伝わっています。

姉川の戦いVS朝倉義景・浅井長政連合「金ヶ崎での雪辱を晴らす」

金ヶ崎から無事逃げ延びた信長は京から岐阜へと移動し長政打倒のための軍備を整え、同年6月、近江に侵攻し、長政の本拠・小谷城の前衛の横山城を包囲しました。

これを見た長政は援軍の朝倉軍と合流し、織田・徳川軍と姉川を挟んで対陣しました。この時秀吉は三番隊を務めましたが、開戦の火蓋が落とされると浅井軍は織田軍目掛けて直進。秀吉率いる三番隊も瞬く間に殲滅され信長本陣まで迫られます。

それを打開したのが朝倉軍と対峙した徳川軍で、数で勝る朝倉軍に横槍を突いたことで朝倉軍は敗走。それを見た浅井軍に動揺が走り、それを見た織田勢が勢いを盛り返し浅井軍を逆襲し耐え切れなくなった浅井軍も敗走。一転して、織田・徳川連合軍の勝利となったのです。

織田軍はその後も横山城の包囲を続け、横山城が開城するとその城には秀吉が入城し浅井氏の監視役として同城を守ることになりました。

この間、摂津の石山本願寺が織田軍に宣戦布告し、比叡山延暦寺が浅井・朝倉連合と結託し織田軍と対立していた際も、秀吉は横山城にて大阪と越前間の交通を封鎖し、これらの勢力の連絡を遮断する役目を担っています。

小谷城の戦いVS浅井長政「京極丸を占拠し大功を上げる」

秀吉が横山城で浅井氏を牽制している間、信長と不仲になっていた将軍・足利義昭の敷いた信長包囲網は瓦解し、義昭自身も京の都を追われ足利幕府は滅亡していました。そして浅井氏の盟友であった朝倉氏も天正元年(1573年)8月、とうとう信長に滅ぼされ、浅井氏は滅亡寸前の窮地に立たされました。

朝倉氏を滅ぼした信長は越前を制圧すると、小谷城に籠城する浅井軍に対し、総攻撃の下知を下しました。小谷城本丸では長政本人、小丸では隠居した父・久政が指揮をとり、連携を強化していました。

そこで秀吉は本丸と小丸の間にある京極丸に目を付け、これを占拠すると状況は一変。城は分断され、先に小丸の久政が攻められ自刃。本丸の長政も孤立し、もはやこれまでと、信長の妹のお市の方と三人の娘を信長に引き渡した後に自害し小谷城は落城しました。

戦後の論功行賞にて、浅井氏が治めた北近江3郡12万石は秀吉に与えられ、今浜の地に信長の一字を拝領した長浜城を築城し、とうとう城持ち大名となったのです。またこれを転機に織田家重臣の柴田勝家と丹羽長秀の名字から一字ずつを拝領し「羽柴秀吉」と名を改めたのです。

織田家重臣として〜城持ち大名になった羽柴藤吉郎秀吉〜:長篠の戦いVS武田勝頼「戦国最強の武田軍を殲滅」

天正3年(1575年)、武田家を継いだ信玄の四男・武田勝頼は信玄の死によって支配権を失った遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)に再び威を唱えるために1万5000の兵力にて、家康の領国である三河に侵攻し、最前線の長篠城を包囲された家康は信長に救援を要請しました。

要請を受けた信長は3万の大軍でもって家康率いる8000の兵と共に長篠城手前の設楽原に布陣し馬防柵を張り巡らし武田軍に備えました。当時最強と称えられた武田騎馬軍団から身を守るためです。しかしそれでは柵が邪魔をして敵を倒すことはできません。

ではどうしたか。信長はありったけの鉄砲を全軍からかき集めて柵の後ろに配置しました。それを三段に分けて撃ったのです。当時の鉄砲は火縄銃で、一発撃ったら弾込めをしなければならず、次に撃つまでの間無防備になってしまうという弱点がありました。それを三段に分けることで間断なく敵を攻撃できるようになったのです。

徳川軍に退路を脅かされた武田軍は、騎馬隊に不利な状況と分かりきっているにも関わらず突撃を敢行。これにより信玄以来の名臣達は悉く討死し、惨敗を喫した武田軍はこれを機に急速に弱体化していくのです。

手取川前夜 VS柴田勝家「秀吉、勝家ともめる」

天正5年(1577年)、能登国(石川県能登半島)を支配下に治めんと軍事介入を計っていた上杉謙信によって攻められた、七尾城の重臣である長続連(つぐつら)・綱連親子に救援を要請された信長は重臣・柴田勝家を総大将とした4万の軍勢を能登に派遣しました。その麾下に秀吉も配属されることになりました。

しかし七尾城内では続連・綱連親子が実権を握ることを良しとしない、遊佐続光・温井景隆らが謀反を起こし長一族を皆殺しにしたあげく、上杉方に寝返ってしまいました。

そのことを知らない織田軍は七尾城を目掛けて進軍していました。ところが、かねてより勝家とソリの合わない秀吉は軍議のもつれから、信長の許可なく離脱。羽柴軍が離脱したところで大したことはないと進軍を続けた勝家ですが、先に敵の動きを察知したのは軍神・上杉謙信。もう目の前まで迫っていました。

手取川を渡りきった後に謙信迫るの報を受けた勝家は撤退を決断。豪雨で増水した手取川ですが夜陰に乗じて渡っている最中、まさかの上杉軍の強襲に遭い瞬く間に壊滅。溺死者多数の大惨敗を喫したのです。

信長の許可無く離脱した秀吉に信長は激怒し、秀吉に蟄居謹慎の処分を下しました。しかしそこは秀吉。参謀・竹中半兵衛の献策を取り入れ連日連夜飲めや歌えやの大宴会を実施。これには信長も笑うしかなく、配下の松永久秀が裏切ったこともあり、秀吉を許し、対松永戦に投入することを決定するのでした。

信貴山城(しぎさんじょう)の戦い VS松永久秀「戦国の梟雄・松永久秀の最後の意地」

手取川の戦いの後、上杉軍の動きがピタッと止まり、頃合いを見た信長は嫡男の信忠を総大将に勝家を除いた能登遠征軍に秀吉を含めた4万の大軍を久秀の籠る大和国(奈良県全域)に派遣し信貴山城を包囲しました。

しかし信貴山城は久秀自らが改修した難攻不落の要塞であり、そう簡単に落ちるものではありません。圧倒的兵力差のある松永軍ですが寡兵にも関わらず攻め手を寄せ付けません。

そんな士気旺盛な松永軍ですが綻びはひょんなところから起こります。摂津の石山本願寺に久秀の使者として派遣された森好久が密かに織田方に内通し、城内にて謀反を起こしたのです。

これにより統率を失った信貴山城は落城。城に火をかけ久秀自身も国宝級の平蜘蛛の茶釜を叩き割った後、切腹して果てました。城の焼け跡からは久秀と思われる焼死体が発見され、焼けた首は安土城に送られることになったのです。

織田家中国方面軍司令官として〜一軍を任されるようになった羽柴筑前守秀吉〜:上月城の戦い VS吉川元春・小早川隆景兄弟「上月城を見捨てる事になった秀吉」

松永久秀の謀反からわずか一月後の10月後半、信長より中国地方の攻略を命じられた秀吉は播磨国(兵庫県西部)に侵攻を開始。圧倒的兵力差により播磨の国人衆は次々と秀吉に帰順し、わずか一月余りで播磨の平定を終えました。秀吉のもう1人の名参謀・黒田官兵衛もこの時、自らの居城である姫路城を秀吉軍に明け渡し有力な協力者となりました。

秀吉はその勢いで播磨の北の但馬国(兵庫県北部)に侵攻し、天空の城として名高い竹田城を落城させるなど快進撃を続けていました。播磨・美作(岡山県北部)・備前(岡山県東部)の国境に位置する上月城をも落とし、かつて毛利家に滅ぼされた尼子氏の末裔である尼子勝久とその家臣である山中鹿之助(幸盛)を城代として配置しました。

しかしこの破竹の進撃を苦々しくみていた毛利輝元は、調略によって播磨国三木城主の別所長治初め、東播磨の国人衆を悉く毛利方に寝返らせました。そして上月城奪還のため、実質毛利家の屋台骨である叔父の吉川元春・小早川隆景以下3万の大軍を投入しました。

これによって秀吉は三木城包囲に兵を残しつつ秀吉自らは上月城を守るため上月城近辺の高倉山に布陣しますが、只でさえ秀吉軍の総兵力2万を上回る毛利軍に二方面作戦を強いられた秀吉は信長に援軍を要請します。

信長はその求めに応じ嫡男・信忠を大将とした援軍を派遣しますが信長の方針は上月城を見捨てろというものでした。これにより上月城の守りについている尼子軍は見捨てられる形となり、秀吉は尼子軍に上月城の放棄をお願いしますが尼子軍は徹底抗戦の構えを解きませんでした。

仕方なく上月城を見捨てる形で高倉山から撤退した秀吉軍を毛利軍が追撃し、秀吉軍は大打撃を受けることになりました。これにより上月城の尼子軍も城兵の助命を条件に毛利軍に降伏し、勝久は切腹して果て、鹿之助も毛利軍に護送される最中に暗殺され、名門・尼子家はここに潰えることになったのです。

有岡城の戦い VS荒木村重「黒田官兵衛を信じ続けた秀吉」

秀吉軍の与力として播磨に従軍していた現摂津守護・荒木村重は信長への不信から居城である有岡城に戻り謀反を起こしました。報せを受けた信長は、明智光秀や黒田官兵衛を説得の使者として有岡城に派遣しますが説得に応じる気配はありません。官兵衛に関しては逆に捕らえられ土牢に幽閉されてしまいました。

村重は渋々従った高山右近・中川清秀らを摂津の各城に配置し、石山本願寺と連携しながら迎撃態勢を整えました。しかし石山本願寺の救援に向かっていた毛利水軍を織田水軍が撃破すると石山本願寺は沈黙。これをみた信長は5万の兵力で摂津に進軍しました。

まず真っ先に狙われたのは高槻城の高山右近です。村重に人質を出しているため不本意ながらも村重に従っていたキリシタンの右近は再三説得され、城から財産まで全て信長に返上することによって村重にも義理を通しつつ人質とキリシタン両方を救おうと信長に降りました。

高槻城の高山右近が信長に降伏したことを知った茨木城の中川清秀はじめ村重方の城も悉く織田軍に帰順し、有岡城は孤立し好機とみた信長は総攻撃を命じますが有岡城を落とすことはできず兵糧攻めに切り替えました。

これにより村重は何もできなくなり、翌天正7年(1579年)9月、夜陰に乗じて、支城である尼崎城に脱出していきました。それを知った織田軍は再び有岡城に総攻撃をかけ城主不在の有岡城を陥落させました。

落城した有岡城には村重や家臣の親族や預かっていた人質に、土牢に幽閉された瀕死の官兵衛の姿もありました。初めはいつまでも有岡城から帰ってこない官兵衛を信長は疑い、秀吉に人質に出していた官兵衛の嫡男・松寿丸(後の長政)を殺せと命じました。

しかし官兵衛を信じていた秀吉は、半兵衛からの献策もあり、松寿丸を殺さずに信長に隠し通し、それを知った信長が秀吉に感謝し、秀吉と官兵衛の信頼がさらに高まったエピソードがあります。

逆に村重と家臣達の親族は織田の人質とされ、尼崎城に籠る村重に対して、投降しなければ人質を殺すと脅迫しますが、村重は応じず人質は全員磔刑に処され、それを知った村重は再起を賭け、尼崎城から花隈城に落ち延び徹底抗戦しますが、ここでも織田軍に破れ、村重は毛利氏を頼って亡命して行ったのです。

三木の干殺し VS別所長治「播磨の平定に成功する秀吉」

遡ること天正6年(1578年)、東播磨の雄である別所長治は一度は秀吉の中国方面軍に降ったものの、織田家との関係に翳りが生じ、とうとう織田家から毛利家に寝返ることになり、長治に影響された東播磨の国人衆も同調し共に毛利家に寝返りました。

三木城には7500の兵や民衆が立て籠りました。兵糧も毛利軍が確保して運びこんでくれるため準備は万端です。これに対して秀吉は三木城を包囲しつつ兵糧の補給基地となっている三木城の支城の攻略にかかります。

しかしそのころ、尼子軍の籠る上月城に毛利軍3万が襲来。秀吉は三木城に抑えの兵を残しつつ軍頭を上月城に向けました。信忠率いる援軍も到着しています。しかし、毛利軍も引かず戦況は硬直し、信長は上月城放棄を決断しました。

毛利軍に追撃されながらも三木城攻めに戻った秀吉は、再度三木城の支城群の攻略に着手し、援軍と共同で支城を全て落とすことに成功しました。これを見届けた信忠は本国に帰還し再び秀吉軍のみで包囲を続けることになりました。

これで三木城への兵糧の供給を止めることができる。そう思った矢先に、今度は与力の荒木村重が謀反を起こし摂津に帰ってしまいます。摂津経由で兵糧を運ぶことができるようになった三木城の士気は湧き立ちます。

この局面を打開するために秀吉は、摂津と三木城の中継地点にある丹生山明要寺と淡河城を攻略し、再び三木城への兵糧の運び入れを阻止することに成功しました。

しかし喜びもあれば悲しみもあり、元々身体の弱かった秀吉の参謀・竹中半兵衛が陣没してしまい、官兵衛も有岡城から帰ってこない中、知恵袋を失った秀吉の悲しみは計り知れないものがありました。

いよいよ兵糧が無くなってしまった三木城では最後の逆転に賭けるため、毛利軍と共同で兵糧を運び入れる作戦に打って出ました。三木城からも一族の別所吉親以下3000が城から撃って出ますが、多くの武将が討ち取られ兵糧の搬入に失敗してしまいます。

さらに籠城軍にとって悪いことは続き、毛利家に味方していた備前の宇喜多直家が織田方に寝返り毛利家の領国と播磨が分断される形となってしまいました。これにより毛利軍も三木城を見捨てるしかなくなり、摂津の村重も滅亡寸前で三木城は完全に孤立してしまいました。

最早これまでと秀吉は三木城に降伏勧告をしますが、長治はこれを拒否し徹底抗戦するも城内にはすでに食料はなく、翌天正8年(1580年)1月、秀吉は別所一族の命と引き換えに城兵を助命する条件を受諾し、三木城は開城することになりました。

これにより播磨の反織田分子は播磨から駆逐され、真に播磨は織田家に平定されることとなったのです。

鳥取城飢え殺し VS吉川経家「戦国史上最も有名な兵糧攻め」

天正8年(1580年)、秀吉は因幡(鳥取県西部)の鳥取城を包囲しました。この時の城主は因幡守護の山名豊国であり、三ヶ月ほど包囲された後、豊国は降伏し織田家に臣従を誓いました。

ところが根の葉も乾かぬうちに鳥取城は再び毛利家に降伏しました。信用のない豊国は城主を罷免され、翌天正9年(1581年)3月、代わりに毛利方の吉川経家が鳥取城主として入城することになりました。

それを良く思わない豊国は織田家に内通し、秀吉の下へ出奔して来ました。毛利方の将である吉川経家は吉川元春の一族であり、勇将として知られ、自らの首桶を片手に持って入城してきたことから毛利方の並々ならない覚悟を感じた秀吉は兵糧攻めを決断しました。

三木城での教訓を活かし、まずは商人を因幡に送り込んで高値で米を買い占めました。鳥取城方も高値につられて備蓄米をほとんど売り切ってしまっため、城内には1400の兵が一ヶ月食べる米もない有様でした。

次に秀吉は鳥取城の近隣の村々を襲いました。逃げまどう村人が行き着く先は鳥取城しかありませんでした。経家は策略と分かりながら村人を庇護するしかなくなり、さらに兵糧の減りに拍車をかけることになりました。

最後は秀吉軍にて徹底的に包囲し、蟻の這い出す隙間すら作りませんでした。これにより鳥取城包囲網は完成し、鳥取城は自滅するしかなくなりました。

兵糧攻めの効果はすぐに出始め、瞬く間に兵糧は尽き、戦に必要な馬はもちろんのこと、ありとあらゆるものが食べ尽くされ、とうとう死者の遺体までも食料とするようになりました。

伝わる話では、人間の部位では脳みそが一番美味しいらしく、あまりの飢餓に耐え切れなくなった百姓が包囲の柵で助けを求めたものの、秀吉の兵に鉄砲を射掛けられ被弾したところ、そこに同じく腹を空かせた味方が包丁や鉈を手に持ち、まだ命があるにも関わらず解体をはじめその場で食べてしまったとのことでした。

あまりにも悲惨すぎる地獄絵図に経家は降伏を決断。自分と重臣達の命と引き換えに城内の者の助命を請い受諾され、同年8月、鳥取城は開城しました。

開城後、秀吉は城内の生き残りに粥を振る舞いますが、腹が減りすぎた降伏者達は急いで粥を腹にかきこむため、胃の働きがついていかず、ここでも死傷者が続出するという二次災害を引き起こし、最後まで凄惨な戦いとなってしまったのです。

備中高松城水攻め VS清水宗治「奇策でもって敵城を湖の中に沈める」

鳥取城を降した秀吉は、翌天正10年(1582年)3月、織田家に降伏した宇喜多軍1万を合わせた3万の兵力で毛利家に味方する備中(岡山県西部)の国人衆を制圧するために備中に侵攻しました。

その中の一つである備中高松城には毛利家の有力国人であり戦上手で知られる清水宗治が5000の兵にて籠城し待ち受けていました。

容易に落とせないことを悟った秀吉は周囲の支城から落としていき、改めて高松城を囲み攻撃を加えますが、城兵の士気は高く逆に討って出てくる始末。さらに毛利家も当主輝元自らが4万の兵を率いて出てきたとの報告もあり時間もありませんでした。

念のため、信長に援軍を要請すると共に、正攻法では勝てないことを悟った秀吉はある奇策を決行します。それは、沼地にある高松城が低い土地にあることから周りに堤防を築いて川の水を堰き止めて城内に流すという、古代中国の春秋戦国時代に晋の知伯が趙襄子の籠る晋陽城に対して行ったことしか前例のない「水攻め」でした。

水攻めの恐ろしさは、水の破壊力にあるのではありません。水攻めは周囲を沈め湖にしてしまうため、まず援軍が来ても湖が行く手を阻み近づくことができません。事実、毛利軍は救援にかけつけたものの、湖の真ん中に沈んだ高松城を前に何もできません。

そして水は物を腐らせる力を持っています。季節は初夏に変わっており、水に浸かった兵糧はすぐに腐ってしまいます。さらに城内の人間は居住区も水に浸かってしまったため屋根に上がるしかなく疲労が城兵を苦しめました。

同年3月には武田家も織田家に滅ぼされており、後顧の憂いの無くなった織田軍が接近しているとの報に接した毛利軍は毛利領のうち5カ国を織田に割譲する代わりに宗治と城兵の命は助けて欲しいと和議を持ちかけますが織田としては宗治を切腹させなければ駄目だと譲りません。宗治自身も自分の首で済むならと快諾してくれました。

そんな矢先に一つの大事件が起こります。6月2日未明、秀吉の援軍に出向くはずだった明智光秀が急遽反転し、京に滞在している信長の宿所である本能寺を強襲。信長や信長を助けに向かった信忠などを討ち取ってしまったのです。

この情報は運がいいのか悪いのか1日後の3日に毛利軍より先に知ることができました。こうなっては信長の死が敵に知られる前に急いで撤退しないと毛利軍に追撃されるのは必定でした。

そこで秀吉は清水宗治の死と3ヵ国の割譲で手を打つ旨を伝え、毛利方もこれを受理し、宗治の自刃を見届けた後、即刻陣払いをし、撤退しました。

毛利家にも信長討たれるの報が届きましたが、すでに和議がなった後であり、秀吉に貸しを作ろういうことでまとまりました。この貸しが後に毛利家を救うことになるのです。

山崎の戦い VS明智光秀「主君・信長の仇を討つ」

後世「中国大返し」と呼ばれる撤退行にて逆賊である光秀を討たんと取って返した秀吉はわずか10日で京都まで戻り、山崎の地で光秀軍と対峙しました。

秀吉方は、信長の三男・神戸信孝、丹羽長秀はじめ続々と参戦者が増え、4万近くにまで膨れ上がった一方、光秀は逆賊の汚名が邪魔をし、ほぼ参戦者はなく、謀反した際の兵力と対して変わらない1万6000の兵で迎え撃つことになりました。

2倍以上の兵力差ながら一進一退の攻防が続きました。しかし2時間後、密かに川を渡り終えた池田恒興、加藤光泰らが光秀の隊に奇襲をかけ混乱したところを信孝、長秀勢に側面を突かれ明智軍は総崩れとなり、わずか1日で戦いは終わってしまいました。

戦場を離脱した光秀は坂本城に退却しようと落ちていく最中に、小栗栖(おぐるす)の地にて落ち武者狩りに遭い、坂本城に辿り着くことなく命を落としました。主君殺しから僅か11日後に敗死したことから、後世「三日天下」と揶揄されるようになりました。

この後、明智家は滅亡し、主君・信長の仇を討った秀吉は、織田家の今後を決める清洲会議にて、信忠の嫡男であり信長の孫にあたる三法師を新しい織田家の総帥とし、それを支える筆頭重臣となったのです。

織田家筆頭として〜後継者戦争の勝者となった平秀吉〜:賤ヶ岳の戦い VS柴田勝家・神戸信孝連合「織田家中での頂上決戦を制す」

信長の仇討ちで名を上げた秀吉は勝家を超える実力者となりました。挙句、信長の四男であり、秀吉の養子である羽柴秀勝を喪主として、信長の葬儀を行ったことにより勝家・信孝連合は激怒し秀吉を引き摺り下ろそうと画策。織田家は分裂してしまいました。

天正10年(1582年)12月。事を重くみた秀吉は雪で勝家が越前から出兵できないのを確信した後、大義名分をつけ、岐阜城に籠る信孝を攻めました。信孝は三法師を引き渡し、母と娘を人質に差し出し和議を結びますが、これを知った勝家は雪中行軍を敢行。3万の兵で近江に出兵し秀吉軍と対峙します。

これに勢いづいた信孝は再び離反し秀吉は挟み撃ちに遭うような形になってしまいました。信孝を討とうと秀吉が場を離れた隙を突いて勝家の重臣・佐久間盛政が秀吉軍に奇襲を敢行。中川清秀などが討死し、少なからぬ損害を受けてしまいました。

気を良くした盛政は勝家の命令に従わずそのまま対陣。急いで戻ってきた秀吉に逆襲されたあげく、柴田軍に所属している前田利家の戦場離脱も重なって柴田軍は壊走し、越前北ノ庄城にて再婚していた信長の妹・お市の方と共に自害し織田家筆頭家老・柴田勝家は滅亡したのです。

勝家を葬り去り、滝川一益も秀吉に降り、裏切った信孝は人質もろとも秀吉によって自害に追い込まれ、三法師を主君と崇めつつ実質的に織田家の支配者となったのです。

小牧・長久手の戦い VS徳川家康・織田信雄連合「家康に局地で負けても大局で勝った秀吉」

どちらかといえば秀吉サイドにいた信長の次男・信雄は織田家の影の支配者である秀吉に安土城を退去させられ秀吉を恨んでいました。そこに目を付けたのが信長の盟友である徳川家康です。家康も天下に名乗りを上げる大儀名文を欲していました。

家康と結んだ信雄は、秀吉の息の掛かった家老衆を血祭りに上げました。これに激怒した秀吉は信雄討伐を決断し天正12年(1584年)3月、尾張に出陣しました。対する家康も尾張に出兵しましたが、秀吉に味方した池田恒興、森長可らが行く手を阻みました。

秀吉と合流した恒興は対峙する家康に対してある作戦を献策します。それは別働隊を編成し、家康の領国である三河を攻めるというもので、家康も領国を攻められれば対処に動かざるを得ないだろうというもの。そしてその役目を自分と長可に与えてほしいと。それに秀吉は許可を出し、他にも甥の三好秀次(後の豊臣秀次)、堀秀政をつけ進発させました。

しかし家康も東海一の弓取りと言われる戦上手。敵の動きを読んだ家康は、信雄と共に夜陰に乗じて別働隊を追撃。ばらばらに行動していた別働隊はまず秀次が狙われ壊滅。秀次を保護した秀政が敵を退けるもそれは陽動でした。

連合軍本隊の狙いは恒興・長可隊でした。長久手の地にて両軍は激突するも次第に連合軍に押され始め、両将とも討ち取られ、隊は壊滅し連合軍の大勝利となりました。

野戦では勝てないと踏んだ秀吉は搦め手を押さえます。信雄に対して、降伏すれば領地を半分返すと和議を持ちかけたのです。このまま時間が経てばいづれ負けることを察していた信雄はこれを受諾し単独で和議を結びました。そのため、大義名分を失った家康も三河に帰国し、次男の於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子として預け講和を結ぶことになったのです。

四国征伐 VS長宗我部元親「元親、四国全土をもってしても秀吉を止めれず」

天正13年(1585年)、土佐国(高知県全域)の長宗我部元親は伊予国(愛媛県全域)の河野道直を降し、ほぼ四国全土の統一を成し遂げていました。元親は家康とも通じており、後顧の憂いを断ちたい秀吉にとって四国支配は喫緊の課題でした。

しかし元親は秀吉の実力も知っており、このままではいずれ滅ぼされることを察していた元親は伊予を割譲することで秀吉と和睦しようとしますが、秀吉はこれを拒否し、さらに讃岐国(香川県全域)を割譲することを打診してきたため交渉は決裂し元親は秀吉との決戦を決断しました。

元親は四国全土から2万の兵を集め、四国の中心に位置する白地城に大本営を置き麾下8000の兵と共に駐留しどこにでも援軍を出せる迎撃態勢を取りました。

対する秀吉は自ら陣頭指揮を取ろうとするも弟の秀長に止められ、代わりに秀長が総大将として四国に攻め込みます。総兵力は毛利軍3万を合わせた10万以上。それぞれ伊予、讃岐、阿波(徳島県全域)三方向から同時に進軍を開始しました。

いくら四国を統一した元親であっても多勢に無勢。城は次々と陥落し阿波一宮城から撤退した重臣・谷忠澄の進言により降伏を決断し受諾されました。

しかし講和の条件は重く、四国の覇者である元親に安堵されたのは土佐一国のみでした。元親はこれを受け入れ、秀吉に恭順を誓ったのでした。

関白として〜朝廷をも好きに動かす豊臣朝臣秀吉〜:九州征伐 VS島津四兄弟「西日本を完全掌握した秀吉」

秀吉が信長の後継者として各地で連勝を重ねているころ、遠い九州でも連戦連勝している大名がありました。薩摩(鹿児島県西部)の島津氏です。

島津氏は長男・義久を司令塔に次男・義珍(よしたか・後の島津義弘)と四男・家久が前線にて指揮をとり、三男・歳久が兄・義久の参謀として侍り、後世、島津に暗君無しと呼ばれる元になった全員天才的な才能を持った兄弟でした。

そんなかれらに、肥前(佐賀県・長崎県全域)佐賀の竜造寺隆信は天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにて島津家久に討ち取られ没落。豊後(大分県のほぼ全域)の大友宗麟・義統親子も島津軍に押され、最早滅亡を待つばかりの状況まで追い詰められていました。

後一歩で九州を統一できるところまできた島津軍に対し大友家は今や関白となった秀吉に対して救援を要請します。そこで秀吉は天正14年(1586年)12月、子飼いの宿将である仙石秀久に十河存保、長宗我部元親を付けた6000の軍勢にて豊後より九州へ攻め入りました。

しかし四男・家久の調略に掛かって野戦に引き出された挙句、戸次川にて大敗し、島津軍の勢いを強める形となってしまいました。これに激怒した秀吉は自ら九州征伐を決断。総勢20万と呼ばれる大軍を率い九州に侵攻しました。

秀吉は二方面作戦を取り、肥後方面(熊本県全域)の義珍、日向方面(宮崎県全域)の家久と激突。島津軍も良く持ち堪えたものの圧倒的物量の前に義久は降伏を決断し、領国は薩摩・大隈(鹿児島県東部)・日向南部を除いて没収されることになったのです。

小田原征伐 VS北条氏政・氏直親子「時勢を甘く見過ぎた関東太守」

九州も平定し後顧の憂いの無くなった秀吉は、関東の支配者、北条氏が降伏の条件として、かねてより提示していた真田氏の沼田領の仕置きを決定しました。当初、沼田は北条氏に割譲される約束でしたが、その一部をあえて真田氏に返上したのです。

それに怒った北条家前当主である北条氏政は、真田氏に割譲された沼田の名胡桃城に侵攻しました。これに対し秀吉は氏政に対して上洛し弁明するよう伝えますが氏政は聞く耳を持ちませんでした。

これを返答と捉えた秀吉は小田原征伐を決定し、総勢25万の軍勢を三手に分け進軍を開始しました。北条方も軍備を強化し、総勢5万にて本拠地であり、天下の名城として知られる小田原城に籠城し、各支城との連携でもって返り討ちにしようと考えていました。

しかし数の上では圧倒的に秀吉の方が有利です。各支城は当初予想していたよりも早く攻略され、包囲された小田原城内では降伏するか否かで連日話し合いが行われるも一向に話は進まず、さらに秀吉は自軍にて一大歓楽街を作り出し、連日連夜のお祭り騒ぎに興じる始末で、力の差を見せつけられた籠城軍の厭戦気分は広がるばかり…。

密約を交わしていた米沢の伊達政宗も秀吉に降り、もはや勝つ見込みの無くなった北条家は降伏を決断。現当主の氏直の切腹と引き換えに城兵の助命を嘆願し秀吉はこれを受理し、天正18年(1590年)7月、約5ヶ月に渡る小田原包囲戦は小田原城の開城でもって幕を閉じたのです。

戦後、主な主導者だった、前当主・北条氏政、弟の北条氏照、宿老の大道寺政繁と松田憲秀が切腹させられ、当主氏直は切腹を免れたものの、高野山に追放されることで、五代続いた関東の名門、北条氏はここに滅亡し、関東八国250万石は国替えした家康に与えられることとなったのでした。

奥州仕置から天下統一へ VS九戸政実「秀吉に喧嘩を売った男」

関東も平定されたことで最早秀吉に対抗できる勢力はどこにもありませんでした。このころには奥羽(東北地方全域)の大名も大小かまわず小田原征伐に参陣しており、逆に参陣しなかった大名は小田原征伐以後、ほぼ改易されました。

奥羽でも改易された大名の代わりに新たな大名が配置され、奥州の仕置を終えた天正18年(1590年)、史実では豊臣秀吉による天下統一が完了したのです。

しかしその翌年である天正19年(1591年)、最後の戦いが奥州の最果てで起こりました。現在の青森県三八上北地方と岩手県北部を治める南部家の南部信直と一族の九戸実親を当主にと押す兄の九戸政実の後継者争いです。

信直より救援依頼を受けた秀吉もこの戦に介入し、甥の秀次を総大将とした6万の軍を政実討伐に送り込みました。政実も戦巧者で知られ、逆に秀次を追い詰める場面もありましたが、多勢に無勢。秀次からも破格の降伏条件を与えられ政実もこれを受諾し投降しました。

しかしこれは罠であり、弟の実親はじめ一族郎党皆殺しにされてしまい、この戦は後世「九戸政実の乱」と呼ばれ、逆賊の汚名を残すことになったのです。

この戦以後、秀吉が亡くなるまでの間、国内では大規模な戦はなくなり、ここに真の天下統一はなったのです。

天下統一を果たしてからの秀吉は関白職を甥の豊臣秀次に譲り、秀吉自身は太閤として朝廷すら操り、この世の頂点に君臨していました。

しかし唯一のストッパーである弟の秀長を亡くし、誰も諫言するもののいなくなった秀吉には、良き相談相手であり茶の湯の師の千利休を処刑するなどの暴走が目立つようになっていきました。

その第一弾が朝鮮出兵です。文禄・慶長の役と二回に分けて行われ、一時は朝鮮半島の大部分を占領するところまで行きましたが、明(中華人民共和国)の援軍や地元の反撃にあって戦況は著しく不利でしたが、それでも秀吉は諦めず、結局秀吉が亡くなったことによって派遣大名に帰国命令がおり、朝鮮出兵は大失敗という形で収束することになったのです。

第二弾は、嫡男・秀頼の溺愛です。文禄2年(1593年)、信長の妹・お市の方の娘の茶々(淀殿)との間に秀頼が生まれると、現在秀吉の後任を務めている秀次を疎ましく思うようになっていきました。

秀次もそれを察していたのか徐々に情緒不安定になっていきます。巷では「殺生関白」と呼ばれ、自ら罪人の首を撥ねたり、妊婦の腹を裂くのを楽しんでいるとの噂も流れ、さらには秀吉に謀反を企んでいるという噂まで持ち上がるようになっていました。

事ここに至り秀次は高野山に追放された後に切腹。その首は三条河原に晒され、その前で秀次の妻子は全員処刑されることになったのです。

天下人の最期「全ては秀頼のために」

秀吉の晩年は秀頼が無事に自分の後を継いで豊臣政権を磐石なものにすることしか考えられなくなっていました。諸大名に対しては秀頼をよろしゅうお頼み申すとしか言わず、全てが秀頼、秀頼でした。

そしてとうとう最期の時が訪れました。家康以下五大老が秀頼の後見人となり、石田三成以下五奉行がそれを補佐するという形を作り出し、慶長3年(1598年)8月18日、初めて天下統一を果たした英雄・豊臣朝臣秀吉は62歳の生涯を終えました。

辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪花の事は 夢のまた夢」と伝わっています。死後、秀吉は神として「豊国大明神」の神号が与えられ、「豊国神社」に祀られました。

豊臣家のその後「時勢は覆らず豊臣家滅亡へ」

表向きは秀頼が豊臣政権を引き継ぎましたが裏では家康が暗躍していました。日々豊臣家を蔑ろにする家康に対して三成は挙兵。天下を二分し関ヶ原にて激突しますが、敗北した三成は斬首され、家康を止めれるものは誰もいなくなりました。

秀頼も一大名に落とされ、家康は朝廷を重んじ、新たに江戸にて幕府を開き、秀頼は慶長20年(1615年)、家康と大坂夏の陣にて最後の戦いを行い、母である淀殿と共に大坂城にて滅んだのです。

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