日本画

歌川広重 葛飾北斎が生んだ『東海道五十三次』を紐解く旅は現代へまだまだ続く

2018-03-10

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「日本橋」(東海道五十三次)歌川広重筆

東京と京都を結ぶ道のりにある53の宿駅のことを「東海道五十三次」といいます。
「東海道五十三次」は、最初葛飾北斎がシリーズで刊行し、その後、歌川広重が描き刊行しました。当時の人々の間でも北斎と広重の「東海道五十三次」シリーズは大ヒットをおさめています。そこで、北斎と広重の「東海道五十三次」に共通する驚きの秘密をご紹介していきます。

葛飾北斎の「東海道五十三次」大ヒットの裏にあるもの

「府中 弥次喜多像」

十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんの珍道中が大ヒットし、この話を元に葛飾北斎が東海道五十三次シリーズを刊行するとまたまた大ヒットとなりました。北斎の東海道シリーズは現在確認されているもので7種類あります。

北斎の東海道は、旅の風俗、宿駅の風俗をメインに描いています。これは、「東海道中膝栗毛」の弥次郎兵衛、喜多八の旅を再現している構成になっているからです。

大ヒットした「東海道中膝栗毛」を読んだ人々の興奮がさらに北斎の東海道シリーズでまた再起し、東海道への旅に強いあこがれを持つようになったといいます。さらに、北斎の東海道シリーズの中の「春興五十三駄之内」では、狂歌が盛り込まれ街道の宿駅以外の場所なども描かれているところにみどころがでています。

歌川広重の「東海道五十三次」大ヒットの裏にあるもの

「日本橋」歌川広重筆

歌川広重は、最初美人画や役者絵を描いていました。そこから風景画に取り組み「東都名所」を刊行していきます。

大先輩であった葛飾北斎が東海道シリーズを次々刊行し、大ヒットを収めていく中で、江戸の版元(出版社)の保永堂の竹内孫八がこの勢いに乗り、大判錦絵の東海道五十三次の刊行を企画しだします。

この企画の絵師に「東都名所」を描いていた歌川広重を起用することを決め、大手版元の仙鶴堂の鶴屋吉右衛門の協力のもと「東海道五十三次」を刊行するはこびになりました。

歌川広重は、この企画の依頼を受け「八朔御馬進献(はちさくのうおうましんけん)」(幕府が朝廷に馬を献上する)行列のお供をし、東海道を実際に歩き見た景色などをもとに「東海道五十三次」の絵を制作していきます。

歌川広重の「東海道五十三次」が刊行されるとまたしても大ヒットとなりました。しかし、広重は、東海道を歩いた経験だけを元に「東海道五十三次」のシリーズを描いたのではなく、「東海道名所図会」と北斎の絵を強く意識していました。

北斎もまた実際に東海道の道のりをすべて見たということはなく「東海道名所図会」の資料を元に絵を描いている部分もあります。ここから、広重と北斎の絵に共通するおもしろい秘密へ進めていきます。

「東海道五十三次」北斎、広重に共通するおもしろいみどころ

「岡崎」歌川広重

北斎、広重とも実際に東海道の道のりをすべて自分の目で見て描いたというわけではなかったようです。北斎は、見たこともない景色に関しては、先に出されていた「東海道名所図会」を参考にし、想像で描いています。

広重もまた、「八朔御馬進献」のお供だけでは知りえない風景に関しては、「東海道名所図会」と大先輩の北斎の東海道シリーズを参考にしていました。ここに、北斎と広重に共通する「東海道五十三次」のおもしろさがでてきます。

たとえば、北斎と広重の「岡崎」の絵には、大名行列が矢作橋を渡る風景が描かれています。これは、「東海道名所図会」が元になっていて、定型とされる絵のきまりに沿って描かれているので、二人の構図があまりにも類似してきます。

ここでいう定型とは、その土地のもっとも有名な名所を描くというきまりのようなものです。本来、江戸から京都へと移る視線で絵が進んでいくものですが、「岡崎」の場合は、北斎、広重ともに西からの視点になり大名行列が江戸を向く形で描かれています。

これは、「東海道名所図」の挿図がそうなっているからです。岡崎は、徳川家康の生まれた場所であったため幕府に縁の深い諸大名が藩主をつとめていた場所でもあります。それだけではなく、画面にも描かれている岡崎城は、家康が元亀元年(1570年)の嫡子信康に城を譲るまでの間本拠にしていた城としても有名です。

2人が「東海道名所図会」を参考にしているのもさることながら、広重の場合は、大先輩の北斎の絵を参考にしているところもあるので、二人の絵を照らし合わせてみるおもしろさがでてきます。

「原」(春興五十三駄之内)葛飾北斎筆

「原」は、北斎の『春興五十三駄之内』で喫煙する二人の女性と一人の男性が富士山を眺めている景色になります。広重も喫煙する一人の女性と後ろ振り返り何かを話しているような女性、それに応えるように荷を担ぎ後ろに続く男性の姿が描かれています。

「原」歌川広重筆

北斎の絵を参考にしているのがはっきりわかる絵です。しかし、北斎と違う点に広重は、富士山を男女の背面に描き画面から突き出す構図にしています。

また、男性の着ている着物の柄をよく見てみると広重の「広」という字を模様にしている遊心が見えるところがこの絵のおもしろさです。広重の「二川」と北斎の『五十三次江都の住かい』の「舞坂」の人物描写もよく似ています。

「二川」歌川広重筆

「二川」と「舞坂」は、ほぼ同地域で近所になる場所です。広重の「二川」には、三人の瞽女(ごぜ)が登場します。瞽女とは、江戸時代から昭和初期頃まで新潟を中心に北陸を周りながら三味線、胡弓(こきゅう)を弾いて唄う旅芸人のことです。

広重は、あえて北斎の「舞坂」と同じ場所ではなく近隣の「二川」で類似したものを描いているところもみどころのひとつです。同じように構図はそっくりでも宿駅を変えているものが北斎の「御油」と広重の「赤阪」でもあります。

「赤阪」歌川広重筆

「赤阪」「御油」は、近距離にあり芭蕉の詠んだ句にも「夏の月御油よりいで、赤阪や」という句碑が関川神社の鳥居脇にあるくらいです。両方とも飯盛女がいた場所として知られていました。飯盛女とは、遊郭とは違い「宿場に奉公人」という名目で黙認されていた遊女の存在です。ただし、すべてにおいて、そこにいた女性が遊女というわけでもなかったようです。

「宿に遊女多し、おなじ宿なれども御油は賤しく赤坂はよろし」という言葉が『改元紀行』にもあります。広重と北斎の絵に共通する部分は、積み上げられた布団と屏風でも見えてきます。

広重は、北斎の絵を参考にし、印象的な人物を取り入れながら近辺にある宿駅に変え、広重風に描き直しているところもまた「東海道五十三次」のおもしろいみどころにつながっています。ぜひ、北斎と広重の「東海道五十三次」を見比べて楽しんでみてはいかがでしょう。

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