日本史

撤退とは負けることではない!天下布武のために命を惜しんだ織田信長の選択

2018-03-12

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尾張の一大名だった織田信長が、尾張を統一し美濃を攻略、そして「天下布武」を掲げて京へ攻め上ってゆく様は、特に戦国時代好きではなくても、胸躍るものがあります。

いかにも「負け無し」のイメージがついている織田信長ですが、歴戦を見てみるとところどころ負けてもいます。それでも天下統一が果たせた背景には、信長なりのリスクマネジメントがありました。

信長時代中期の有名な撤退戦「金ヶ崎の戦い」を例にとって信長の成功の秘訣を見てみましょう。

義弟の裏切りで窮地に立つ

元亀元年(1570年)4月20日、京都を出発した信長は、上洛命令を拒み続けている越前の朝倉義景を討つために兵を進めました。24日には若狭佐柿に織田軍本陣を構えます。初めて戦う対朝倉戦でしたが、あっけなく金ヶ崎城は陥落しました。この流れに乗って朝倉義景のいる一乗谷へ攻め込もうという矢先の26日夜、急報が入ります。織田信長の妹お市を嫁がせ軍事同盟を結んだはずの小谷城主・浅井長政が、義兄である信長を裏切り朝倉側に付いたのです。

朝倉家と浅井家は、政長の祖父の代から親交を深めてきた間柄。とはいえ、義兄弟となっている信長を裏切るとは、信長にとってみればまさかの事態でした。

怒りのあまり突撃をするかと思いきや

このとき、信長は素早く撤退を選びます。
金ヶ崎城を落として士気は十分高まっている織田軍の兵たちは、少なからず驚いたことでしょう。
しかし、このまま強行に一乗谷に攻め入れば浅井によって退路を断たれて負けてしまう可能性が高くなります。もたもたしていては手遅れになる、とばかりにすぐさま信長は28日夜、自軍を残し金ヶ崎からの撤退を開始しました。信長に従うものは僅か十人たらずで、京に逃げ帰ります。
ちなみにこのとき殿(しんがり)軍の指揮に大抜擢されたのがのちの豊臣秀吉です。無事殿を務めあげ秀吉の大きな功績となりました。

すべては天下布武のため

平凡な武将であれば、もしかしたら進軍していたかもしれません。しかし、天下布武の実現のためにはこのようなところで命を落とすわけにはいかない、と信長は生きることに執着しました。

意気揚々と京を出発した信長を見ていた京の人々の目には、ほんの僅かな人数で逃げ帰ってきた信長は、さぞかしかっこ悪く映ったことでしょう。

しかし、武功を焦るかのような無謀な戦いを避け、場合によっては敵に背を向ける撤退を選択する、そんなリスクマネジメントができる信長だからこそ、天下の統一が叶ったのではないでしょうか。

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