仏像

とどまらない修行法、雲水

2018-03-18

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お坊さんの修行と言ったら、お寺で寝起きをし、朝は早くに起きて掃除や度胸の修行三昧。
そんなイメージがありませんか?宗派に違いがあるように、修行法にも色々な種類が存在します。雲水(うんすい)もその一つです。

雲水の意味

雲と水。両者ともに共通するイメージがありますね。それは「流れる」というイメージです。
雲は時に形を変えて空を流れますし、水もまた、地形に応じて時に形を変え、二つに割れたりして流れていきます。
雲水とは、そんな雲と水の臨機応変ともいえる変幻ぶりから、自由な人として例えられました。
雲水は後に、特定の寺にとどまらず行脚の旅に出る僧侶、もしくは行脚そのものを示すようになります。
諸行無常、移り行くのが仏教の考えです。一つ所にとどまっていては分かる真理も分からない、という意味合いもあるでしょう。

お寺にいる間は修行期間中?禅宗でよく行われた修行法

「お坊さんはお寺にいるものでは?」と思う所ですが、実はこれはまだ修行中なのです。
雲水も修行ですが、行脚の前にまず心得等を作らなくてはなりません。全ての宗派、仏教がこの修行法を行うわけではありませんが、禅宗においては、まずお寺で基礎を修行、然る後に雲水修行に出るというのが定番だったようです。
何故にこのような修行法が生まれたかと言えば、一つには別の師との出会いを求める為です。「今までの師匠じゃ駄目だ」というわけではなく、色々な師との出会いや教えにより、悟りを得る意味がありました。

功徳を積ませる意味もある

もう一つの目的は、衆生を救う為です。言ってしまえば、僧侶の仕事とは民衆を救うこと、その一言に尽きます。
日本に渡って来た頃の仏教は鎮護国家の名の下、国に広く信仰されました。しかし、その実態は貴族や中枢だけの物、権力者や金持ちの物と言った印象が強いです。良い来世を迎える為の功徳を積むには、寺院を建て、仏像を作らせ、経典を読むこと。そう信じられていました。いずれも当時の民衆からすると無理の一言です。
そんな格差社会の中、「南無阿弥陀仏と唱えるだけで良い」との浄土教が生まれたのです。雲水にも、そんな「簡単に詰める功徳」の意味があります。それは何かと言えば、僧侶への施しです。仏教では「僧侶は自分の物を持ってはいけない」という戒律があり、最低限の食糧などは托鉢と言って他者から恵んでもらうのが常となります。
僧侶への托鉢、それはほんの少しの米粒でもいいのです。「貧者の一灯」とあるように、心がこもっていればそれだけでいくらか良い来世が約束されるでしょう。
雲水の僧侶はただ歩き回り教えを説くだけではなく、物を与える慈悲の心を芽生えさせる存在でもあるのです。

まとめ

何事にも相性があります。「この師匠では悟れなかったけど、師匠を変えたら悟ることができた」というのは、禅僧の逸話ではよくあることです。
雲水修行の際には、お寺では見られなかった光景も見ることでしょう。経典では得られなかった体験をすることが修行となり、悟りに至ったケースさえあります。雲水の果てにどのような悟りを得るのか?それは実際に雲水修行をしてみればわかるでしょう。
正式な僧侶でなくとも、お遍路参りなどで雲水の気分は味わえます。一度行ってみるのもいいでしょう。少なくとも、違った景色が見えてくるはずです。

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