日本史

徳川家最強 本多忠勝 ただ勝つの名にふさわしい生き様を追う

2018-03-24

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名前には名付ける者の思いがこもると言います。そして名付けられた者はその名前にふさわしい生き方をする者も少なくありません。今回はその名前に従ってか、生涯一度も負傷しなかった無敵の猛将、本多忠勝をご紹介します。

本多忠勝とは

本多忠勝は天文17年(1548年)に、三河国額田郡蔵前(愛知県幸田町)で本多忠高の嫡男として誕生しました。本多一族のルーツは藤原氏の末裔で、南北朝時代に北朝側について功を認められて尾張国に移り住んで来たのが始まりのようです。

忠勝は宗家筋であり、忠勝の名前は「ただ勝つのみ」との親の願いがこもっていると言われています。分家筋には家康の知恵袋として側にはべる本多正信、正純親子や、三河三奉行の一人である本多重次がいます。

忠勝が生まれた翌年に今川家の織田攻めに対して、今川方の安祥松平家に仕えていた父・忠高が討死し、叔父である本多忠真が忠勝を教育していくことになり、元服して宗家に代々伝わる「平八郎」を名乗ることになります。

若くして松平家臣団の中で頭角を現した忠勝は、松平姓から徳川姓に名字を変えた徳川家康が家臣団を再編成(三備の軍制)した際には、東三河を率いる酒井忠次、西三河を束ねる石川数正と並ぶ家康直轄の親衛隊の部隊長に抜擢され、数々の戦で武功を重ねて行きます。

豊臣秀吉の天下統一後に家康は東海地方から関東に国替えを命じられた際には、上総大多喜10万石を与えられ、安房国の里見家に対する抑えの役を担いますが、秀吉亡き後に起こった関ヶ原の戦いで、家康率いる東軍が石田光成の西軍に勝利すると、伊勢桑名10万石に移封され、慶長15年(1610年)10月18日に領地の桑名にて63年の生涯を終えることとなりました。

忠勝不敗神話

忠勝は家康の参加した戦いにはことごとく従軍しており、歴史上有名な戦いでは必ずと言っていいほどの武功を上げていました。そんな忠勝には戦場でのエピソードがいくつもありますが、その中から何点かご紹介します。

忠勝の初手柄
忠勝初陣の翌年、叔父の本多忠真が敵武将を討ち取り兜首を取った。宗家の嫡男である忠勝に手柄を上げさせるために、自分の討ち取った首を忠勝の手柄とするように諭しますがそこで忠勝は、「我何ぞ人の力を借りて以って武功を立てんや」と横取りすることを拒否し、自ら敵陣に切り込み別の敵将の首を上げ本物の手柄を上げました。

姉川の戦いにて
元亀元年(1570年)に織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍とが近江で対峙し、後に姉川の戦いと呼ばれることとなる戦がありました。この戦は、数で勝る信長軍が、浅井軍に本陣近くまで攻められ、撤退寸前まで追い込まれますが、朝倉軍を徳川軍が撃破したことにより戦況が一転し織田・徳川連合軍の勝利となりますが、ここで戦局を覆したのが本多忠勝でした。

織田軍と違い、朝倉軍と徳川軍では朝倉軍の方に分があったため、徳川軍も苦戦を強いられました。それを打破するために忠勝は朝倉軍の正面に単騎駆けを行ったため、忠勝を討たせるなとばかりに徳川軍が朝倉軍に突撃を敢行し、機を捉えた榊原康政(後の徳川四天王の1人)が側面より突撃し朝倉軍は壊滅します。

朝倉軍を破った徳川軍が織田軍を圧倒していた浅井軍の側面を攻めたことにより浅井軍も総崩れとなり、姉川の戦いは織田・徳川連合軍の大勝利に終わりましたが、忠勝の単騎掛けを契機に戦況がひっくり返ったことから本多忠勝の名が全国に広まることになりました。

小牧・長久手の戦いにて
小牧近辺にて膠着状態に陥った羽柴軍と徳川軍ですが、こう着状態を打破しようと家康の本拠地である三河を落とそうとした秀吉は別働隊を三河に送ります。この動きを察知した家康は裏をかいて逆に別働隊を叩くために動きだしますが、この時忠勝は、小牧の陣にて留守居を命じられます。

結果は家康の圧勝だったのですが、この時水面下では、秀吉が数万の大軍でもって別働隊を殲滅した家康を追っていました。それを発見した忠勝は、皆が止めるにもかかわらず、わずか500の手勢にて秀吉を阻止しようと川越しに攻撃を仕掛けますが圧倒的物量の違いにより全く相手にされません。それでも執拗に攻撃してくる忠勝のことを秀吉は気になっていました。

秀吉が側の者に尋ねると、姉川の戦いで大活躍した本多忠勝とのこと。圧倒的大軍に怯まずに500の兵で阻止しようとする忠勝の姿に家康への忠義を感じた秀吉は、今の忠勝を攻撃してはならないと自軍に命令を下しました。

結果として戦略上は羽柴軍の勝利、戦術上は徳川軍の勝利と言われる小牧・長久手の戦いですが、ここでも忠勝は武と忠義を見せつけたのです。

忠勝三種の神器

徳川最強の猛将、本多忠勝は使用する武具もひと際度肝を抜いていました、ここでは有名な忠勝の三種の神器である槍、兜、鎧をご紹介します。

忠勝の槍 蜻蛉切
「とんぼきり」と読みます。この槍は、日本号、御手杵(おてぎね)とともに「日本三名槍」の1つに数えられていますが、ある日戦場でとんぼが飛んでおり、槍の穂先にとんぼが止まった際、そのまま真っ二つになってしまったことが名前の由来だそうです。

蜻蛉切の凄いところはその長さにあります。当時の槍は長さが約4.5メートルだったのですがこの槍は6メートルありました。単純に1.5メートル違うだけで相手の槍が届く前に相手を倒すことができるので長さは重要ですが、それを使いこなす忠勝もやはり超人だったのでしょう。

忠勝の鎧 黒糸威胴丸具足
「くろいとおどしどうまるぐそく」と読みます。真っ黒な鎧で比較的軽量な鎧だったようで、忠勝が動きやすさを重視していたことが伺えます。

また、忠勝は鎧の上から大きな数珠をショルダーバッグのように掛けていました。この数珠には自分が討ち取った敵を弔う意味がこもっていたと言います。忠義者の忠勝は、倒した相手の忠義をも、こうした形で汲み取ろうとしていたかのようです。

忠勝の兜 鹿角脇立兜
「かづのわきだてかぶと」と読みます。両脇から生える鹿の角がインパクトを与えますが、この角は和紙を黒漆で塗り固めて作られているそうでそんなに重くはないそうです。

なぜ忠勝が鹿角のこだわるのかといえば、桶狭間の戦いで今川軍が敗走した際に今川軍に味方していた家康も三河に落ち延びようとしますが、増水した川に道を阻まれ進めなくなってしまいました。そんな時に一頭の鹿が現われます。

その鹿は家康を唯一渡れる浅瀬に導いてくれました。そのおかげで家康は三河に帰ることができたのです。その時家康に付き従っていた幼い忠勝はその鹿を神の使いと考え鹿角の兜を製作させ装備するようになったと伝わっています。

不敗神話の終焉

生涯57回の戦いに出陣し、かすり傷1つ負わなかった忠勝が人生の最後に怪我をしてしまいました。自分の持ち物に小刀で名前を彫っていた時に誤って指を切ってしまったのです。ささいな怪我ですが忠勝にとっては始めての怪我でした。

その時忠勝は、自分の命ももう長くないと家臣に漏らしました。死を悟った忠勝はその言葉通りに数日のうちに63年の生涯を終えたのです。信長や秀吉などの時の権力者達からも忠義と超人ぶりを賞賛された忠勝ですが寿命には勝てなかったのです。

本多忠勝の居城 桑名城

本多忠勝が10万石で入部することになる桑名城のある桑名の地には本来、「桑名三城」と呼ばれる3つの城がありました。

それは伊藤武左兵衛門実房・実倫親子の東城、樋口内蔵助の西城、矢部右馬允の三崎城からなります。

忠勝が入った桑名城は伊藤武左兵衛門実房・実倫親子の東城があった場所に辺ります。

東城は永正10年(1513年)に伊藤武左兵衛門が城を築いたのが始まりとされていますが、天正2年(1574年)に織田信長が桑名を攻略すると伊藤武左兵衛門実房・実倫親子も信長の支配下に組み込まれることになります。

それから時が経ち、豊臣秀吉の時代になると、桑名の重要性に気付いた秀吉が自らの子飼いの将を桑名に配置するようになり、代を継いでいた2代実倫は東城から退き、桑名の町の顔役として江戸時代を生きることになりました。

関ヶ原の戦いにて東軍が勝利し、徳川の世になると慶長6年(1601年)、家康は徳川四天王の一人であった忠勝を上総国大多喜10万石より遷し、伊勢桑名10万石に封じました。

そして、転封前の上総大多喜10万石のうちの5万石を、忠勝の次男・忠朝が与えられたので、忠勝は実質15万石の主となったのです。

本多忠勝の町造り 桑名城編

忠勝は桑名に入ると直ちに大規模な城の改修を始めました。

天守は4層6階からなり、その高さは17メートルを誇り、二の丸、三の丸を初め、東南、西南、西北の三隅にはそれぞれ三層の巨大な櫓を建て、さらには48基の櫓と40基以上の詰長屋からなる威容な城構えを築きました。

また許斐川より水を引いて堀をめぐらせ、三方が海に面していることから船着場も整備されたこの城は巨大な水城となったのです。

この城の普請には、徳川四天王筆頭であった井伊直政も、家臣を引き連れて城の普請を手伝ったとのエピソードも伝わっています。

さらに忠勝は城下町の整備にも力を入れ、寺を外側に配置することによって、外敵が押し寄せた場合の前線基地にするとともに、職業ごとの名前の入った町を造り、町人に住居を指定することにより、各職業間の連携を高めました。

城内と城下町は二つの大手橋で繋がり、元々は東海道沿いの宿場町であることから宿場の整備も積極的に進めた結果、桑名の町の賑わいは大変素晴らしいものとなりました。

忠勝の築いた桑名の城下町についてこんな記述があります。

元禄4年(1691年)にオランダの商館員として日本を訪れたケンベルなる人物が残した紀行文によると、桑名は巨大な都市であり、全市を通行するのに45分もかかってしまったとあります。

また、水際にある城は巨大で、天守閣の眺めは素晴らしく、三方を海に面してそこから2つの橋で城下に繋がっている…と。

忠勝は桑名藩創設の名君と仰がれることとなったのです。

本多忠勝の死

桑名の城下町整備に勤しんだ忠勝でしたが、徐々に身体に衰えが見え始めたことから、中枢の政治からは遠ざかっている忠勝。

一度は隠居を断られた忠勝でしたが、眼病を患うようになると、家康より隠居を許され、嫡男の忠政に伊勢桑名10万石の家督が引き継がれることとなりました。

家督を譲った1年後の慶長15年(1610年)10月18日に自ら開発に力を入れた桑名の地で63年の生涯を終えました。

一説には、一度もケガをしたことのない忠勝が死の数日前に手元が狂って小刀で左手にかすり傷を負ってしまったことで自らの寿命を悟ったともありましたが、忠勝の死に対して、2人の家臣が殉死し忠勝の左右に埋葬され、今も忠勝の両翼を守っているのでしょう。

桑名藩のその後

桑名藩は嫡男・忠政に引き継がれましたが、それからわずか7年後の元和3年(1617年)に播磨国姫路藩主として15万石に加増されて移封させられてしまいました。

代わりに桑名藩主となったのは家康の異父弟であり、久松松平氏の祖である松平定勝でした。

そして定勝から2代後の松平定重の時代に桑名の町は大火に見舞われます。

元禄14年(1701年)に起こった大火は桑名の町の大半を焼き尽くし、オランダ商館員・ケンベルからも評価された天守も燃やし尽くされてしまったのでした。

燃えてしまった天守は再建されることがなく、桑名のシンボルが一つ失われてしまったのです。

定重が家臣の不手際を正すために下した処分が重過ぎるとして、越後高田藩に移封されてからは、奥平松平氏の松平忠雅が代わって桑名に入りました。

藩政改革や、桑名の藩校である進脩館の基礎を築くなど評価の高かった忠雅から7代113年間に渡って奥平松平氏が藩政を担うと、再度久松松平氏が越後高田藩より移封され、藩政を担うこととなりました。

そして時は幕末。会津藩主・松平容保の弟である松平定敬が養子として迎えられると会津藩、荘内藩とともに佐幕派として徳川幕府と行動をともにした定敬。

しかし新政府軍に鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると桑名藩も降伏し無血開城するにも関わらず、幕府に組した見せしめとして桑名城に火がかけられ、大火で焼失した天守に代わってシンボルであった辰巳櫓が灰燼に帰してしまったのでした。

桑名城 現在

桑名城のあった一帯は昭和3年(1928年)に「九華公園」として整備され、昭和17年(1942年)には三重県指定史跡に認定されました。

公園には天守閣跡や辰巳櫓跡を始め、久松松平家の藩祖を祭った鎮国守国神社があります。

そして三の丸の跡地には、名槍・蜻蛉切を構えた往年の猛々しい本多忠勝像が来たものの心をノスタルジーへと迎え入れるのです。

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