日本史

上杉謙信 毘沙門天率いる上杉軍の強さの秘密とは

2018-03-25

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上杉謙信といえば、最強の軍神であり、毘沙門天の生まれ変わり、生涯独身を貫いた等、歴史でもかなりの有名人なのではないでしょうか。
今回はそんな上杉謙信率いる上杉軍団の強さの秘密を、合戦と経済を通して検証していきたいと思います。

上杉謙信とは

上杉謙信という名前は法号であり、幼名を虎千代といいます。元服後は長尾景虎と呼ばれていました。関東管領就任時に「上杉政虎」、その後に、時の足利幕府の将軍、足利義輝より一字をもらい受け「上杉輝虎」、そして出家して「不識庵謙信」と号すのです。

謙信は享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代・長尾為景(ためかげ)の4男として春日山城(新潟県上越市)に誕生します。謙信は4男なので本来は家督を継げる位置に無く、為景隠居後は兄である晴景が跡を継いでいましたが、晴景に混乱した越後をまとめる力はありませんでした。

そんな中、元服した謙信が華々しい初陣を飾ると、配下の越後国人衆は謙信に注目するようになり、快く思わない兄・晴景との仲が険悪なものになっていきます。そしてとうとう兄弟対決に至るのですが、謙信が兄を降し、兄の養子となることで、正式に家督と共に越後守護代を継ぐことになりました。

謙信は義理堅く、約束を違えぬことを信条としており、私利私欲のための戦をしない男でした。自分を頼って来た者の求めに応じて行った戦は如何ほどか計り知れません。自分の信じた正義のために関東の北条、越後を虎視眈々と狙う武田信玄と長きに渡る死闘を繰り広げることになるのです。

そんな中、永禄4年(1561年)、北条に追われ匿っていた、時の関東管領・上杉憲政より、上杉姓と関東管領職。さらに「政」の字を譲られ、「上杉政虎」と名乗り、謙信の戦に大儀名文が加わることになりました。年末には将軍・足利義輝より「輝」の字を賜り「上杉輝虎」と名乗ります。

武田、北条と死闘を繰り広げていた謙信ですが、武田と結んだ越中の椎名康胤と一向一揆を討つため、北条に関東管領・上杉輝虎を認めさせ同盟したのを機に、本格的に越中・能登方面への進攻を開始します。

「不識庵謙信」を号した謙信は信長と敵対していた義昭により、ライバルだった武田と共に信長包囲網に加わり、京への道を切り開くために越中・能登を制圧。加賀を攻めるも次の遠征準備中の天正6年(1578年)3月9日、春日山城の厠にて脳溢血のため倒れ、3月13日に49年の生涯を閉じるのです。

謙信三大合戦

謙信は生涯で約70回の戦を行っており、負けたのは2回だけだったといいます。ここでは、謙信が戦った戦いで、大規模かつ有名な戦いを3つ検証していきます。

小田原城の戦い
永禄3年(1560年)、今川義元が桶狭間にて信長に討ち取られ、今川と同盟していた武田、北条の結束が緩んだのを好機とみた謙信は、北条氏康討伐のため関東出兵を決断し、関東の諸将に対し檄を飛ばしました。8000余りの越後勢でしたが、関東入りした際には諸将が我先にと謙信の下に終結し、総兵力約10万の大軍にまで膨れ上がりました。

北条方の城を次々と降しながら氏康の本拠地、小田原城を目指し、永禄4年(1561年)3月、上杉連合軍はとうとう小田原城を包囲することに成功しました。圧倒的大軍を前に氏康は城から討って出ることができません。

落城も時間の問題と誰しもが思いましたが、そこでも武田信玄が謙信の邪魔をし、謙信の本拠地である越後を脅かしました。また、関東諸将も兵糧の欠乏を理由に連合軍の維持ができなくなり、とうとう小田原城を落とすこと無く撤兵することになりました。

北条を滅亡寸前まで追い詰めたものの滅ぼすまでには至りませんでしたが、その破竹の進撃ぶりは上杉軍の強さを天下に知らしめることになったのです。また、この遠征の合間に敵地である鎌倉の鶴岡八幡宮にて正式に関東管領就任式を行ったことも天下に驚きを与えました。

第4次 川中島の戦い
謙信と信玄は北信濃の覇権を賭け、国境を流れる千曲川を挟んでたびたび戦を繰り返していました。その一帯が川中島と呼ばれていたことから後世「川中島の戦い」と語り継がれることになります。

川中島の戦いは全部で5回行われており、その中で最も激しい戦いだったのが、永禄4年(1561年)に行われた第4次川中島の戦いです。実際に戦った地名から「八幡原の戦い」とも呼ばれています。

関東出兵の際に越後の国境を信玄に脅かされたことから信玄と決着を付けなければならないと考えた謙信は、8月15日に善光寺に到着すると留守居に5000を残して、1万3000の兵で南下し、川中島の妻女山に布陣しました。

謙信出現の知らせを受けた信玄は、2万の兵と共に川中島の茶臼山に布陣した後、堂々と海津城に入城しましたが両軍の睨み合いは続き、士気の低下を恐れた信玄は軍師・山本勘助の立案した啄木鳥(きつつき)の戦法を採用し決戦に臨みます。

啄木鳥の戦法とは、本隊が囮になっている間に別働隊が敵陣を襲い、山を降りてきたところを本隊と挟み撃ちにして殲滅するという作戦で、決まれば一撃必殺の作戦でした。囮となる本隊は8000で信玄自ら努め八幡原に布陣します。

しかし謙信は武田軍からの炊煙がいつにも増して多いことからこの動きを察知し、夜陰に乗じ妻女山から八幡原に移動しました。そして運命の9月10日、霧が晴れた八幡原で信玄が目にしたのは、目の前まで迫っている上杉軍の姿でした。総兵力では勝っている武田軍ですが、この場においては兵力で負けており、勢いでも負けている…。

本陣にまで迫られた武田軍は乱戦の最中、作戦を見破られた山本勘助が責任を取るためか乱戦に切り込み討死したほか、信玄を守ろうと盾になった信玄の弟、武田信繁などが討ち取られました。そこに単騎駆けしてきた謙信が三度信玄を切りつけ信玄はそれを軍配で受け止め、信玄を討ち漏らした謙信はその場を離れました。

そこでやっと武田の別働隊が八幡原に到着。今度は逆に謙信が窮地に立たされます。戦の不利を感じた謙信は、善光寺に撤退していきました。

この戦は前半は謙信の勝ち。後半は信玄の勝ちと言われ、死者も上杉軍3000に武田軍4000と戦国時代でも屈指の大戦として語られています。

手取川の戦い
天正5年(1577年)、謙信が織田方の能登の七尾城を攻めたために、信長は柴田勝家を総大将とした3万の大軍を援軍に差し向けました。それを察知した謙信は、七尾城を落とすと2万の兵で南下し松任城に入城しました。

手取川を渡って加賀北部に進軍した勝家はそこで初めて七尾城の陥落と、目の前の松任城に上杉軍が入城していることを知りました。危険を察知した勝家は撤退を決断しますが、すでにそこまで上杉軍は迫っていました。

そして9月23日の夜、撤退のため手取川を渡河中の織田軍は謙信に攻められ壊滅。戦国最強の武田軍を長篠で破った織田軍が、討死だけでも1000人を越え、溺死者も多数出す大敗を喫したのです。

「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」という落首が有名ですが、織田軍を壊滅させた謙信は、織田軍について、実際に戦ってみると案外弱い。との言葉を残したとも伝えられています。

上杉軍の真の強み

謙信は生涯70戦2敗とありますが、実は勝率自体はそんなに高くはありません。上杉軍は引き分けも多かったのです。それがなぜ上杉軍は強いと謳われるのか。その謎を検証していきます。

上杉軍は壊滅しなかった
死傷者を3割以上出し、軍の姿も無く散り塵に逃げ惑うさまを壊滅といいますが、上杉軍の戦を調べると壊滅した話が驚くほどありません。織田信長武田信玄など、どの有名な武将でも一度は死にかけた様な惨敗話があるのにです。

謙信の負け戦としては、第4次川中島合戦の直後に北条氏康と激突した「生野山の戦い」と永禄9年(1566年)に北条方の白井入道浄三と戦った臼井城の戦いがありますが、どちらも上杉軍が主力の戦いではなかったようです。

一度壊滅した軍は生き残っても士気が大いに下がり、惨敗したトラウマが頭に残ります。そして死傷者が多ければ領地の経済にも打撃を与え、新たに軍を立て直すにも新兵の補充に訓練と、莫大なお金が動きます。壊滅しないと言うのはそれだけで凄いことなのです。

越後の土地
上杉軍の構成は当然越後の百姓達です。今でこそ越後こと新潟県は日本一の米どころですが、それは土地改良が進んだ江戸時代中期以降の話で、当時は深田が多く米作りにはあまり適していなかったそうです。そんな胸まで浸かるような深田で米作りをしなければいけない百姓の体幹は当然鍛えられます。

また越後は四季の環境が厳しいため、戦場のような劣悪な環境には慣れきっています。そのため普段は百姓をしている上杉兵は戦場にもすぐに適応できるのです。兵農分離ができていなかったため農閑期限定という弱点はありましたが、だからこそ上杉軍を支える上杉兵は強かったのです。

特産品の恩恵と流通の強化
謙信は領土欲が無く、後年、北陸を版図に治めたものの基本は越後一国のみで上杉軍を支えてきました。毎年関東に信濃と動員令を発されている上杉軍を越後一国ではとても賄えるものではありません。どこから動員費用を賄うのか。それには越後の土地そのものの恩恵がありました。

青苧(あおそ)という植物からは丈夫な繊維が取れます。その繊維で織られた特産品に越後縮(えちごちぢみ)というものがあります。それを専売制とし、領内の良港である直江津や柏崎から、京をはじめ全国に出荷し、莫大な金銭収入をあげました。それは、収入の4割にも及んだといいます。

他にも馬、鉄、塩に紙も特産品として全国に出荷されました。まだ佐渡金山を支配下に置いていない時代に特産品の流通を支配することで上杉軍の財源は賄われていたのです。

上杉軍の強みは兵の質と経済環境にあった

謙信自身は毘沙門天の生まれ変わりとして義のために戦を繰り返しているため得るものが何もなく、普通ならばとても軍団を維持できるものではないのですが、特産品の流通で得た経済力と、越後の自然に鍛えられた上杉兵の個々の強さが、上杉軍の強さを影から支え、毘沙門天の神懸かった采配に拍車をかけたのです。

上杉謙信ゆかりの桜! 花見の後は名湯でほっこり温泉2選

美しい桜を観た後は、ゆっくり温泉に浸かってみるのはいかがでしょうか? 今回は桜の名所からほど近い温泉を2つ、桜の見どころとともに紹介していきたいと思います。

上杉謙信ゆかりの「謙信のさかさ桜」と「猿ヶ京温泉」

群馬県利根郡みなかみ町に、かの有名な戦国武将上杉謙信ゆかりの桜の名所があります。それが「謙信のさかさ桜」です。天文21年(1552)に上杉謙信が出兵し関東に向かう際、この地で小休止を挟んだ折に、日枝神社へ参拝したそうです。この時上杉謙信は春日山から持参した桜の鞭を逆さに地面に指し、これが芽吹くかどうかで戦局を占ったとか。その後数年しないうちに桜が芽吹き花を咲かせたことから、この桜は「豊年桜」と呼ばれるようになったそうです。現在樹齢450年となる「謙信のさかさ桜」ですが、毎年4月下旬から5月上旬にかけて美しく咲き誇る姿を見ることができます。

「謙信のさかさ桜」の近くには、昔お腹を空かせていたところを若夫婦に助けられたサルが、大やけどを負った夫婦の子供を治癒したという伝説を持つ「猿ヶ京温泉」があります。 江戸時代に笹の湯・湯島温泉の名で名湯として親しまれていた温泉街が移設され、現在の猿ヶ京温泉として生まれ変わったそうです。無色透明で湯量が大変豊富なこちらの温泉は、高血圧や動脈硬化症、リウマチ性疾患などに効くとされています。

長い桜のトンネルを抜けるとそこは「登別温泉」だった

北海道登別市には、春限定で絶景を楽しめる登別の桜並木があります。 約2kmにわたってエゾヤマザクラが咲き誇る姿は、まさに「桜のトンネル」と称すのにふさわしい絶景と言えます。こちらは昭和9年に皇太子(今上天皇)のご誕生を記念し、地元の有志で近隣の山から約2年かけて2000本もの桜を植栽し、さらにここ数年で数百本もの桜も植樹して今に至るそうです。沿道の途中にある桜ざか駐車公園に車を止めることができるので、ぜひ一旦運転の手を休めゆっくりと桜並木を堪能してみてください。

そして、登別の桜並木を通り抜けてたどり着くのが、登別温泉です。 「登別温泉」は、古くからアイヌの人々も薬湯として重宝していたと言われている歴史ある温泉地です。登別温泉は「硫黄泉」「食塩泉」「明ばん泉」を始めとするバラエティ豊かな9種類もの泉質があることから、「温泉のデパート」とも呼ばれています。登別温泉ほど様々な泉質が揃っているのは世界的にも珍しいそうです。

また、温泉地からは、日和山の噴火によりできた爆裂火口跡で今もガスと温泉が湧き出ている「地獄谷」や国の天然記念物に指定されている登別原始林などへのアクセスも良く、雄大な自然を感じられる数多くのスポットがあります。

満開の桜と温泉を楽しもう

今年は満開の桜と温泉をセットで楽しめるお花見の旅はいかがでしょうか。ぜひ時期を狙って美しい光景と癒しの時間を一緒に満喫してみてください。

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