日本史

明智光秀 裏切りばかりじゃない!卓越した行政能力と城造りへの思いを探る

2018-03-26

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明智光秀といえば、本能寺にて主君である織田信長を討った謀反人であり、後の天下人、豊臣秀吉に山崎にて敗北し、三日天下と嘲られるなど、不名誉なレッテルばかりが目立ちます。

しかし逆を言うならば、もし光秀に能力が無ければ主君を確実に討ち取れる地位に上ることすら出来なかったと言うことです。今回は汚名ばかりが目立つ光秀の、普段クローズアップされない隠されたスペックを解き明かして行きたいと思います。

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明智光秀とは

明智光秀は、美濃の土岐氏支流明智光綱の子として享禄元年(1528年)に美濃明智城に誕生しましたが、正確に伝わっていないのが実情で、生まれ年もいくつか説があり、父も光綱以外にも候補がおり、中には鉄砲鍛冶の息子が養子になったという説すらあります。

そんな光秀も弘治2年(1556年)に斎藤道三が、息子である斎藤義龍に討たれた長良川の戦いにて、道三側に味方したために、明智城を攻められ一族離散の憂き目に会い、浪人として諸国を流浪することになります。

光秀は一途な男として知られ、生涯の正室である煕子以外は側室も置かなかったといいます。光秀の浪人時代にも従った煕子は、自分の黒髪を売って光秀を支えました。

そんな苦労を乗り越え、母方のつてを得て、越前の朝倉義景に仕官することになりますが、そんな朝倉家に将軍である足利義昭が亡命して来ることになり、その際に足利義昭の幕臣となりました。

そして永禄11年(1568年)義昭の使者として信長と出会い、この時に幕臣であると同時に信長の家臣にもなり、元亀2年(1571年)比叡山焼き討ちの際には中心人物として功を上げ、信長より近江坂本5万石を与えられたのを機に義昭と袂を分かち、正式に信長の家臣となり頭角を現すことになります。

数々の戦に従軍し、天正8年には、平定した丹波1国29万石を加増され、近江坂本5万石と合わせ計34万石の大領に丹後の細川藤孝等、畿内の諸大名を与力として与えられ、実質畿内方面軍司令官として織田家中では、北陸方面軍の柴田勝家、次席家老の丹羽長秀、関東方面軍の滝川一益、中国方面軍の羽柴秀吉と並ぶ実力者になりました。

そして運命の天正10年(1582年)。対毛利戦で苦戦している中国方面軍の羽柴秀吉を助けるために信長の命で出陣していた光秀が諸説あれど突如方向を変え6月2日、信長の宿泊している京都の本能寺を1万3千の兵で強襲し信長以下100人余りの手勢を討ち取り、救援に駆けつけた嫡男の織田信忠、京都所司代の村井貞勝らをも葬り去りました。

後に「本能寺の変」と呼ばれる大事件からわずか11日後の6月13日、中国方面から電撃的に引き返してきた羽柴秀吉に京都の山崎の地で破れ、近江坂本城に落ち延びる途中に百姓の落ち武者狩りに会ってしまいます。

奮闘虚しく深手を負った光秀は自害し、55年の生涯を閉じました。世間はそんな光秀を、下克上がなるもすぐに取って代わられたことから「三日天下」と笑い者にし、日本史上最も有名な裏切り者として歴史に名を残すことになったのです。

光秀の卓越した行政能力

光秀は裏切り者として有名ではありますが、光秀の所領では卓越した行政手腕で領民からひどく慕われていました。ここでは、光秀の行った善政や行政能力を見ていきます。

国人衆を家臣として任用
当時はどこの国にも「国人衆」と呼ばれるその土地を支配する領主が存在していました。国人衆の多くは治外法権の政治を行っていたため、新しい統治者が現われた場合も統治には干渉させなかったために淘汰され、新しい統治者の家臣団に取って代わられることも少なくありませんでした。

しかし光秀はその土地を良く知る国人衆を逆に家臣団に取り立て、代官に任用することにより、大きな変化に慣れない領民の生活を変えることなく国人衆に干渉することが出来るようになり、光秀の善政が領民に行き渡ることになりました。

丹波国福知山にて
たくさんの川が流れ込む沼地にある福知山は古くから水害に悩まされていました。新領主となった光秀は福知山の治水に着手し、由良川の流れを変えて堤防を築き、岸には竹を植えました。その堤防は「明智藪」と呼ばれ、現在も地域の人々に愛されています。

光秀の商業政策
光秀は地場産業を奨励し、長引く戦で疲弊した農民には年貢を低くし、商業地では、土地にかかる税金を免除したり、信長も採用している独占販売を禁止した「楽市楽座」政策をとるなど自由で公正な商いを推進しました。

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光秀の城造り

光秀は行政手腕だけではなく、城造りにも長じていました。そんな光秀の城造りに共通していることは、当時主流だった戦のための山城ではなく、領民の暮らしに寄り添い、領民の目線に沿った「平城」を築城したと言うことです。ここでは、光秀が領内で実際に築城した城をご紹介します。

坂本城
現在の滋賀県大津市の琵琶湖沿いに元亀2年(1571年)に近江坂本5万石を加増された際に築城されました。坂本の地は比叡山と琵琶湖に囲まれた天然の要害であり、また人の往来が激しく、琵琶湖の水運も発達した交通の要衝でもありました。

天守と小天守が推測され、宣教師のルイス・フロイスの評価によると、信長の安土城に次ぐ名城との評価を得た城でした。焼き討ちした比叡山の監視と琵琶湖の制海権を抑えることが目的でしたが、光秀が亡くなってから4年後の1586年に秀吉の命を受けた浅野長政が大津城を築城した際に廃城となってしまいました。

丹波亀山城
現在の京都府亀岡市に築城された丹波亀山城は、天正6年(1578年)、丹波国攻略の拠点として光秀により築城された、3重の天守が構えられた平山城で、現在の跡地は宗教団体の総本山となっているようです。

丹波亀山城は廃城されることなく、秀吉や家康からも重要拠点と認識され、一門衆や譜代大名が入城し、慶長15年(1610年)には、藤堂高虎が丹波亀山城を大改修し、5重の層塔型天守を持つ大城郭へと変貌し明治維新まで続くことになりました。

福知山城
京都府福知山市にある平山城で、光秀が築城した際は、福知山ではなく「福智山」と呼ばれていました。天正7年(1579年)丹波平定を終えた後に築城され、光秀の娘婿の明智秀満が城代となりました。

福知山城も藩城として明治維新を迎え、現在は福知山公園として整備されており、昭和61年(1986年)に、3重3階の大天守と2重2階の小天守が復元され、続日本100名城にも選定されています。

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光秀亡き後の領民たち

光秀亡き後も領民たちは光秀の恩を忘れませんでした。秀吉に見つかったらどんな咎を受けるか分からないことを承知で光秀のことを「御霊さま」と祭り、亡き光秀のために大祭を行っており、いかに領民に慕われていたか計り知れません。

その名残なのでしょう。今でも福知山では「福知山御霊大祭」、丹波亀山城のあった亀岡市では、「亀岡光秀祭り」や「ききょうの里」といった催しが行われ、光秀の遺徳が偲ばれているのです。

子孫が語る【明智光秀】 「逆臣」は汚名か真実か。「本能寺の変」の動機に新説あり

ほとんどの日本人が知っている有名な出来事であるにもかかわらず、非常に謎が多いとされている「本能寺の変」。明智光秀を謀反に向かわせた動機もその謎の1つです。さまざまな憶測や定説がある中、近年、まさに明智光秀のご子孫によって新説が発表されました。

これまでの定説

謎という歴史ロマンに見せられた多くの研究者や専門家が、光秀の謀反の動機にさまざまな説を提唱しています。どの説にも「なるほど!」と納得したくなる面と、「いや…それはちょっとこじつけでは?」といった面が見られます。では、これまで唱えられている数々の説の中から代表的なものをいくつか挙げてみたいと思います。

【怨恨説】
信長亡き後、天下に名を馳せた羽柴(豊臣)秀吉が、本能寺の変からしばらくたった後に公式に発表した「本能寺の変の顛末書」に書かれていたのが、この怨恨説のベースとなっているようです。その後も、軍記ものや絵巻などを通して「信長に不当な扱いや意地悪をされて恨みを募らせていった光秀がついに謀反を起こした」という説が定着していきました。

【「我こそ天下を取る!」の野望説】
こちらも、秀吉により広められたとされている説です。証拠として秀吉が打ち出すのは、光秀が天下取りの野望を表現したとされる連歌、愛宕百韻(あたごひゃくいん)の「時は今あめが下しる五月かな」という発句。秀吉はこれに「とき=土岐氏(光秀の出自)」「あめが下=天下」「しる=収める」という解釈をもたせ、光秀は「土岐氏の自分が、天下を治める」という野望を歌に込めた、としました。しかし、本能寺の変は五月ではなく6月だったというところが、気になるところ。

【信長の四国政策転換説】
そのころ四国を治めていた長宗我部元親との交渉を担当していたのが光秀でしたが、信長は長宗我部討伐の軍を光秀抜きで編成されたことに、腹を立て(もしくは絶望し)たため、というのがこの説です。面目をつぶされ出世の見込みがなくなったので、謀反を起こした、ということでしょうか。

【実は黒幕がいた説】
黒幕とされるのは「豊臣秀吉」「徳川家康」「足利義昭」「イエズス会」など、本当にさまざまな説があります。

黒幕説以外の説の特徴は面目や出世欲、私怨などの明智光秀の個人的な感情が前面に表れていることでしょうか。

ご子孫が語る新説とはコレ!

信長は、武田氏、長宗我部氏、上杉氏を滅ぼし、毛利家とは手を結び、まさに天下を手中の収めようとしていたところ。そんな信長が次に狙っていたのは明(中国)の征服「唐入り」でした。信長亡き後、その後を引き継いだ秀吉の時代には現実となった朝鮮や明への武力外交ですが、これが信長の時にも計画されたということです。

信長の天下統一は戦国の世を治め、争いのない世の中にするためと信じていた光秀にとっては、憂うべき重大事だったでしょう。信長が日本を治めた後は、国外までその覇権を伸ばそうというのであれば、当然家臣である明智家も明での戦いに身を投じることとなるだろう。言葉も通じない異国の地で、明智・土岐一族が滅亡の憂き目に遭うのは何としても避けたいと思っても不思議ではありません。信長の暴走を止め、一族を守るには自分が信長を討つしかない、そう思い詰めたというのです。

新説、その根拠とは

さて、信長の暴走を止め明智・土岐氏一族を守るために謀反を起こしたという新説ですが、光秀のご子孫からは、どういった根拠があげられているのでしょうか。

土岐氏は、元は源氏の一族でかつて美濃一帯勢力を持ち足利尊氏を支え、栄華を誇った一族。水色の桔梗紋が旗印の、団結の強い軍勢だったと言います。そこから分かれた土岐明智氏が明智光秀の出自とされています。その後足利義満の陰謀によって一族離散の目に遭った土岐氏でしたが、戦国の世に土岐氏の再興を光秀が担っていました。

一族再興の重責を胸に秘めた光秀は、信長のもとで戦国の世を生き残ることに心を砕いていました。明智家家臣への指示「家中軍法」には「粉骨砕身に忠節に努めよ」とあり、また「家中法度」には光秀が治める丹波と近江坂本を行き来する家臣が、道中もめごとを起こさないように指示が細かく書かれています。このことから分かるのは、光秀の合理的な性格です。合理的な性格であった光秀が、個人的な恨みや野望で、謀反を起こそうとするのは考えにくい、というのが根拠としてあげられています。

次に挙げる根拠は、勝利を祈願して詠まれたという、前出の愛宕百韻の読み解きです。この場合「あめが下しる」ではなく「あめが下なる」とされた写本を引き合いに出しています。「下なる」と変わると、「強い雨に打たれている」という意味になり、それをふまえ「土岐氏は今この強い雨に打たれているような苦しい状態にある5月だが、6月になればこの辛い状況から脱したいものだ」と解釈しました。そして、当発句の最期の句にある「国々はなお長閑なるとき」にも願いが込められているとして、「昔のような平和な時代に戻りたいものだ」と解釈しています。

勝者が作る歴史の定説

歴史は、勝者が自身の正当性を強調するために、演出をほどこして残すこともままあることです。分からないことを資料や考察をもとに想像する、これがまさに歴史ロマンの楽しみの一つ。

これからも新たな発見や研究がなされ、謎が解明されていくことを楽しみに待ちましょう。

「本能寺の変」後、【明智光秀】の最期と子孫の行方

天正10年、といえば歴史好きの人は「お…」と反応するほど有名な出来事が起こりました。本能寺の変です。
戦国の世を席巻した織田信長が家臣である明智光秀の謀反に合い、亡くなったこの事件は、光秀側の動機や見つからなかった信長の遺体など、さまざまな謎を孕み、後世に生きる人々の歴史ロマンを掻き立てています。

さて、今回は本能寺の変後、「逆臣」となってしまった明智光秀の最期をたどります。そして光秀の子孫たちがどうなったか、気になりますよね。そちらも詳しく見てみることにしましょう。

まずは明智光秀について

織田信長に登用され、光秀がその名を歴史の表舞台に出すのは、40歳も近くなってから。青年期を含む前半生はハッキリとは分かっていませんが、おそらく1528年ごろに生まれ、美濃一帯を治める土岐氏の支流、土岐明智家が出自と言われています。光秀が28歳の時に斎藤道三とその息子が争った「長良川の戦い」が起こり、結果的には負けてしまう道三側に味方したため、一家離散の憂き目にあい、浪人の身となります。諸国を回った光秀でしたが、やがて朝倉義景に鉄砲の腕をかわれ仕官したといいます。

その後、縁あって足利義昭の家臣となり、義昭と織田の仲介者として同時に信長の家臣ともなります。そして、1568年上洛する義昭に従った光秀は、翌年の1569年、三好三人衆が義昭の宿泊先を急襲した際の戦闘に参加します。このとき、はじめて織田家の正史と伝わる「信長公記」に、明智光秀の名が初登場しました。

やがて信長直属の家臣となった光秀は織田軍として数々の戦に参加、比叡山の焼き討ちにおいては、中心戦力となりました。武功を上げた丹波では領地を拝し、丹波の領地経営に乗り出します。1579年のことです。そしてそれからわずか3年後、光秀は歴史に名高い「本能寺の変」を起こすのでした。

明智光秀、非業の最期

天正10年(1582年)の6月2日亀山城より進軍した光秀は、手薄になっている信長の逗留先である本能寺を急襲、信長を自害に追い込むことに成功しました。
そして京都を抑え、織田勢の残党を追います。この時味方になってくれると踏んでいた細川忠興は、妻であり光秀の娘である珠を幽閉し、光秀の蜂起の誘いを断り続けます。同じように大和の筒井順慶も期待が外れ秀吉軍に付き、三成は窮地に立たされてしまいます。やがて中国大返しをしてのけた羽柴秀吉と、山崎で衝突、明智軍は敗走することになります。拠点としており一門もいる坂本城へ帰る途中、小栗栖で落ち武者狩りの百姓に出会ってしまい、竹やりを腰骨に刺され重傷をおいます。
それがもとで亡くなったとも観念して自害したとも伝えられる、光秀の最期。明智光秀終焉の地は、現在も「明智藪」としてひっそりと残り、そのすぐ近くには光秀の胴を埋めたとされる塚が立っています。

その頃坂本城では

安土城に待機していた明智秀満は、山崎の戦いでの負けの知らせを受け残った兵と共に坂本城へ向かうものの、籠城戦すらもできない状態に観念し、光秀と自分の妻子を殺害後、城に火を放ってから自害したと言われています。

しかし、のちにイエズス会の宣教師が、坂本城落城の前の日、坂本城からたくさんの人が逃げ、光秀の子どもも生きているという噂がある、と報告したともいいます。
実際に、千葉県には子孫のものと伝わる墓所もあり、各地に明智一族の子孫の存在を伝える家系も残っているらしいのです。
一方で光秀の子どもとされる、嫡男の明智光慶と、光秀甥・明智秀光の妻、織田信澄の妻、細川忠興の妻(玉・後のガラシャ)、そしてもう一人の幼い男児、がいると言われていますが、実際に記録として確認できるのは、娘の3人だけで、嫡男とされる光慶も末の男児もじつはその存在がはっきりしていないようです。

謎の解明にはあとどれくらいの時間がかかるでしょうか、タイムマシンの発明とどちらが先か楽しみなところです。

光秀の娘・玉の最期

光秀の娘・玉、と呼ぶよりも、細川ガラシャ、といえば分かりやすいでしょうか。
本能寺の変の直後、謀反人の娘という理由で夫である細川忠興に幽閉されていましたが、その後大阪の屋敷に移ります。つらい立場は境遇は察して余りあるものです。そんな玉は、心の救済をキリスト教に求め、洗礼を受けキリシタンとなります。与えられた洗礼名が「ガラシャ」でした。

やがて、父を殺した豊臣の世が陰りを見せた頃。関ヶ原の戦いに際し、豊臣軍である西軍に細川家を引き入れようとした石田三成は、ガラシャを人質にしようとします。しかし、ガラシャはこれを拒否、城に火を放ち命を絶ちます。さらに遺体が残らないように爆弾を仕掛けさせました。キリシタンには自害が禁じられているので、家老・小笠原秀清に介錯をさせたとも、自ら自害したとも言われ諸説あるようです。ガラシャの壮絶な死に夫忠興は悲しみ、結局は東軍に付くことになりました。このような形で、父の無念を晴らすことになったガラシャの辞世の句が伝わっています。

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
(散る時を心得てこそ、花も人も美しくあれる)

美しくも気性の荒い女性だったと言われるガラシャですが、洗礼を受けてから忍耐強く謙虚で穏やかな女性になったと言われています。けれど、このような死を選ぶことは武家の女性らしい潔さや覚悟が感じられます。

その後の日本を変えた【明智光秀】の優れた領国経営。いまだ京都で愛される理由

1582年に起こった本能寺の変。主人である織田信長に対し謀反を起こした逆臣としてのイメージが定着している明智光秀ですが、領地であった丹波では、優れた領地経営の手腕で、名君として領民に慕われていたと言います。丹波の産業の発展、活性化を促したその功績を見てみましょう。

丹波平定

信長の命によって明智光秀が平定・統治をした丹波。現在の京都府と兵庫県内陸部にまたがる地域です。明治の廃藩置県により丹波国は二つの県に分けられてしまいましたが、もともとは1つの国。とはいえ山続きでその間にそれぞれ国人が治める土地が点在し、攻めにくい土地だったようです。

織田信長に敵対する、将軍足利義昭に味方していた丹波の国人宇津氏らの討伐に向かった明智光秀が亀山に入ったのは、1575年のこと。しかし予定よりも丹波攻めは手間取り、平定したのは1579年と、実に4年の歳月がかかっています。その功績が信長に認められた光秀は、丹波一国を加増され34万石の領地を治めることとなりました。光秀が丹波攻めの拠点として築いた亀山城(亀岡城とも)は現存していませんが三重の天守が構えられていたと言います。イエズス会の宣教師フロイスが書いた「フロイス日本史」には、光秀を評して「築城のことに深い造詣があり、優れた建築手腕をもつ」とあります。余談ですがあの本能寺の変の折りも、この亀山城からの進軍だったことに、歴史の皮肉さを感じます。

領地の改善や産業の活性化に尽くした光秀

丹波平定のあとは、福知山城を築きました。このとき、光秀は領民たちが必要としている平地に築城するのではなく、丘陵地の西のはずれにあった横山城を、石垣と堀そして天守閣のある立派なお城に改築します。石垣には仏塔や墓石などが混ざり、急ごしらえであった形跡が現在でも見ることができます。遠い石切り場から運ぶよりも、近くにある石を使った方が確かに合理的ではありますね。領民たちが石を運ぶ際の「ドッコイセ」という掛け声が、今に伝わる福知山音頭の始まりとされています。その後、領民には墓石となる新たな石を返したともいわれ、人々の信仰の場を蔑ろにすることはなかったと伝えられています。

また、由良川・土師川・弘法川・和久川・牧川と、多くの川が流れ込む沼地の福知山の治水に着手、由良川の流れを変えて堤防を築き灌漑のための排水路を作りました。水害に悩まされていた福知山は整備された城下町となったのです。光秀が堤防や護岸のために竹を植えた「明智藪」は現在も鳥の貴重な繁殖地として地域の人々が大切にしています。

ほかにも、農業用水路を作るなど、多くの領地改善に取り組んだ光秀の事業は領民に安心して暮らせる土地を与えることでもありました。
治水工事により新たにできた土地には、紺屋町、呉服町、鍛冶町、などの合理的な街つくりを行い、商業、産業地域としての整備を進めます。藍や生糸、コウゾの産地であった福知山は他地域に誇れる地場産業をもっていました。さらに、戦闘で疲弊した農民へは年貢を低くし、商業地には土地にかかる税金である地子銭をなくすなどして、いわば経済特区を作り、城下の産業の発展を推し進めたのです。また同時に、独占販売や非課税権のある市座を排した「楽市楽座」政策を取り、商工業者間で自由な取引ができるようにしました。

現在でも市民に愛される名君・光秀

福知山城の初代城主となった明智光秀は、その3年後本能寺の変を起こします。福知山での当地の歳月は、3年足らずと短いものでしたが、さまざまな善政を敷いたということで、今も福知山の市民に親しまれています。

明智光秀丹波を拡め ひろめ丹渡の福知山
お前見たかや お城の庭を 今が桔梗の花盛り

福知山出て 長田の越えて 駒を進めて亀山へ
ドッコイセ ドッコイセ ドッコイ ドッコイ ドッコイセ

これは、今も福知山の夏まつりに踊られる、福知山音頭の歌詞の一部です。こうして、歌にすることで光秀の治世をたたえ、伝えているのですね。
さらに、福知山市の市の花は明智家の紋である桔梗ですし、福知山市観光協会のキャラクターはなんと「光秀くん」と「ひろこさん」そのまんまです。こちらのキャラクターデザインは何とあの長寿アニメ忍たま乱太郎の作者尼子騒兵衛さんとのこと。ぜひ一度見てみたいものです。

本能寺の変のあと、亡き信長の遺志を継いだ豊臣秀吉は、自分の正当性を高める効果を狙ったのか、光秀の謀反を強調し、後世へ向けて「明智光秀=逆臣」というストーリーを広げていきます。そんな中で福知山の人々は、光秀の恩を忘れず、治世をたたえその死を悼んでくれていました。

ひっそりと光秀を祀った御霊神社には、明智家家来四天王政孝が使用したとされるすね当てや、光秀直筆の書などが所蔵され、当時をしのぶ貴重な資料となっています。

まとめ

すっかり悪者のイメージが定着してしまっている明智光秀ではありますが、こうしてみると、イメージがガラッと変わってしまいますね。歴史の側面だけ見ていては、真実を見誤ることもある、そんな教訓に満ちた光秀のエピソードでした。

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