日本史

明智光秀 裏切りばかりじゃない!卓越した行政能力と城造りへの思いを探る

2018-12-06

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明智光秀といえば、本能寺にて主君である織田信長を討った謀反人であり、後の天下人、豊臣秀吉に山崎にて敗北し、三日天下と嘲られるなど、不名誉なレッテルばかりが目立ちます。

しかし逆を言うならば、もし光秀に能力が無ければ主君を確実に討ち取れる地位に上ることすら出来なかったと言うことです。今回は汚名ばかりが目立つ光秀の、普段クローズアップされない隠されたスペックを解き明かして行きたいと思います。

明智光秀とは

明智光秀は、美濃の土岐氏支流明智光綱の子として享禄元年(1528年)に美濃明智城に誕生しましたが、正確に伝わっていないのが実情で、生まれ年もいくつか説があり、父も光綱以外にも候補がおり、中には鉄砲鍛冶の息子が養子になったという説すらあります。

そんな光秀も弘治2年(1556年)に斎藤道三が、息子である斎藤義龍に討たれた長良川の戦いにて、道三側に味方したために、明智城を攻められ一族離散の憂き目に会い、浪人として諸国を流浪することになります。

光秀は一途な男として知られ、生涯の正室である煕子以外は側室も置かなかったといいます。光秀の浪人時代にも従った煕子は、自分の黒髪を売って光秀を支えました。

そんな苦労を乗り越え、母方のつてを得て、越前の朝倉義景に仕官することになりますが、そんな朝倉家に将軍である足利義昭が亡命して来ることになり、その際に足利義昭の幕臣となりました。

そして永禄11年(1568年)義昭の使者として信長と出会い、この時に幕臣であると同時に信長の家臣にもなり、元亀2年(1571年)比叡山焼き討ちの際には中心人物として功を上げ、信長より近江坂本5万石を与えられたのを機に義昭と袂を分かち、正式に信長の家臣となり頭角を現すことになります。

数々の戦に従軍し、天正8年には、平定した丹波1国29万石を加増され、近江坂本5万石と合わせ計34万石の大領に丹後の細川藤孝等、畿内の諸大名を与力として与えられ、実質畿内方面軍司令官として織田家中では、北陸方面軍の柴田勝家、次席家老の丹羽長秀、関東方面軍の滝川一益、中国方面軍の羽柴秀吉と並ぶ実力者になりました。

そして運命の天正10年(1582年)。対毛利戦で苦戦している中国方面軍の羽柴秀吉を助けるために信長の命で出陣していた光秀が諸説あれど突如方向を変え6月2日、信長の宿泊している京都の本能寺を1万3千の兵で強襲し信長以下100人余りの手勢を討ち取り、救援に駆けつけた嫡男の織田信忠、京都所司代の村井貞勝らをも葬り去りました。

後に「本能寺の変」と呼ばれる大事件からわずか11日後の6月13日、中国方面から電撃的に引き返してきた羽柴秀吉に京都の山崎の地で破れ、近江坂本城に落ち延びる途中に百姓の落ち武者狩りに会ってしまいます。

奮闘虚しく深手を負った光秀は自害し、55年の生涯を閉じました。世間はそんな光秀を、下克上がなるもすぐに取って代わられたことから「三日天下」と笑い者にし、日本史上最も有名な裏切り者として歴史に名を残すことになったのです。

光秀の卓越した行政能力

光秀は裏切り者として有名ではありますが、光秀の所領では卓越した行政手腕で領民からひどく慕われていました。ここでは、光秀の行った善政や行政能力を見ていきます。

国人衆を家臣として任用
当時はどこの国にも「国人衆」と呼ばれるその土地を支配する領主が存在していました。国人衆の多くは治外法権の政治を行っていたため、新しい統治者が現われた場合も統治には干渉させなかったために淘汰され、新しい統治者の家臣団に取って代わられることも少なくありませんでした。

しかし光秀はその土地を良く知る国人衆を逆に家臣団に取り立て、代官に任用することにより、大きな変化に慣れない領民の生活を変えることなく国人衆に干渉することが出来るようになり、光秀の善政が領民に行き渡ることになりました。

丹波国福知山にて
たくさんの川が流れ込む沼地にある福知山は古くから水害に悩まされていました。新領主となった光秀は福知山の治水に着手し、由良川の流れを変えて堤防を築き、岸には竹を植えました。その堤防は「明智藪」と呼ばれ、現在も地域の人々に愛されています。

光秀の商業政策
光秀は地場産業を奨励し、長引く戦で疲弊した農民には年貢を低くし、商業地では、土地にかかる税金を免除したり、信長も採用している独占販売を禁止した「楽市楽座」政策をとるなど自由で公正な商いを推進しました。

光秀の城造り

光秀は行政手腕だけではなく、城造りにも長じていました。そんな光秀の城造りに共通していることは、当時主流だった戦のための山城ではなく、領民の暮らしに寄り添い、領民の目線に沿った「平城」を築城したと言うことです。ここでは、光秀が領内で実際に築城した城をご紹介します。

坂本城
現在の滋賀県大津市の琵琶湖沿いに元亀2年(1571年)に近江坂本5万石を加増された際に築城されました。坂本の地は比叡山と琵琶湖に囲まれた天然の要害であり、また人の往来が激しく、琵琶湖の水運も発達した交通の要衝でもありました。

天守と小天守が推測され、宣教師のルイス・フロイスの評価によると、信長の安土城に次ぐ名城との評価を得た城でした。焼き討ちした比叡山の監視と琵琶湖の制海権を抑えることが目的でしたが、光秀が亡くなってから4年後の1586年に秀吉の命を受けた浅野長政が大津城を築城した際に廃城となってしまいました。

丹波亀山城
現在の京都府亀岡市に築城された丹波亀山城は、天正6年(1578年)、丹波国攻略の拠点として光秀により築城された、3重の天守が構えられた平山城で、現在の跡地は宗教団体の総本山となっているようです。

丹波亀山城は廃城されることなく、秀吉や家康からも重要拠点と認識され、一門衆や譜代大名が入城し、慶長15年(1610年)には、藤堂高虎が丹波亀山城を大改修し、5重の層塔型天守を持つ大城郭へと変貌し明治維新まで続くことになりました。

福知山城
京都府福知山市にある平山城で、光秀が築城した際は、福知山ではなく「福智山」と呼ばれていました。天正7年(1579年)丹波平定を終えた後に築城され、光秀の娘婿の明智秀満が城代となりました。

福知山城も藩城として明治維新を迎え、現在は福知山公園として整備されており、昭和61年(1986年)に、3重3階の大天守と2重2階の小天守が復元され、続日本100名城にも選定されています。

光秀亡き後の領民たち

光秀亡き後も領民たちは光秀の恩を忘れませんでした。秀吉に見つかったらどんな咎を受けるか分からないことを承知で光秀のことを「御霊さま」と祭り、亡き光秀のために大祭を行っており、いかに領民に慕われていたか計り知れません。

その名残なのでしょう。今でも福知山では「福知山御霊大祭」、丹波亀山城のあった亀岡市では、「亀岡光秀祭り」や「ききょうの里」といった催しが行われ、光秀の遺徳が偲ばれているのです。

明智光秀はなぜ本能寺の変にて信長を葬るに至ったのか?

天正10年(1582年)6月2日未明、主君・織田信長の命により中国戦線で毛利軍と対峙している羽柴秀吉の援軍に向かっていた明智光秀は突如方向を変え、率いていた1万3000の兵とともに本能寺を強襲し、宿泊していた信長と、助けに馳せ参じた信長の息子・信忠を葬りました。

数々の説がありますが1つずつ紹介していきます。

明智光秀の怨恨説

晩年の光秀は信長からたびたび屈辱的な仕打ちを受けていました。下戸であるのに酒を強要される、徳川家康の接待係に命じたにも関わらずその任をこなせていないと見た信長が多数の家臣たちの見守る中打ち据えたことなどです。

光秀が信長に打ち据えられた話は枚挙に暇がなく、光秀の所領である丹波国(京都府南西部・兵庫県東南部)と近江(滋賀県)の坂本城を取り上げる代わりに秀吉の援軍で毛利家の出雲国(島根県東部)、石見国(島根県西部)を攻略できた際は光秀の領地にしても良いといった内容のものもあります。

丹波1国と坂本城近辺を合わせた領地34万石を没収される代わりに得られる領地は出雲・石見2国だとしても2国合わせて30万石に届かず、しかも攻略した後というのですから光秀も背に腹は変えられなくなったのではないでしょうか。

また、フィクションらしいのですが、丹波を攻略する際に平和的な解決を望んでいた光秀は年老いた母親を人質として丹波八上城に送る代わりに八上城主である波多野秀治を信長との会談に応じらせることに成功しました。

ところが話し合いのために信長の居城である安土城に向かった秀治主従を信長は磔にして殺害してしまいます。

それに激怒した秀治の家臣たちは光秀の母親を磔にして殺害した後に首を切断し、骸を木に縛りつけました。

それを見つけた光秀はやり場のない怒りを込めながら号泣したといいます。

こうなることが分かっていれば誰よりも身内を大事にする光秀が年老いた母親を人質になど送るはずは無かったことでしょう。

フィクションとはいえ実際にあってもおかしくはなかった話のように思えます。

明智光秀・徳川家康共謀説

信長にとって織田家へ人質として赴いたころからの付き合いで今や欠かせない同盟者である家康ですが同時に家康の底知れなさを信長は恐れてもいました。

そこで信長は光秀に家康の暗殺を命じます。

そのためのお膳立てとして家康を京の都に呼び寄せ、家康に悟られないように接待攻めを行いました。

そして計画通り光秀が秀吉の援軍として京を進発。

明朝には大軍を率いて京を取り囲んで家康を討ち取る…。

当然自分が攻められるとは思っていない信長は滞在先の本能寺に最低限の供回りしか連れていませんでした。

そこを光秀が強襲し信長はこの世からいなくなりました。

実はこの計画を逆手に取った光秀は家康と共謀していたのです。

この説はお互いがともに供回りが少ないことから来ているそうです。

信長が本能寺で無警戒なら家康は家康で信長の招きに応じた際の供回りも酒井忠次や本多忠勝などわずか数人と言われています。

信長も家康も光秀が相手を討つことを知っていたから、どちらも無警戒だったのではないかというのが根拠だそうです。

明智光秀・羽柴秀吉共謀説

光秀が本能寺で信長を討ってから山崎の戦いで光秀が秀吉に敗れるまでの期間がわずか11日しかないことから、秀吉のあまりの手際の良さを逆手に取り、秀吉との共謀説が囁かれました。

それは信長に対する秀吉の援軍要請から始まります。

毛利家と対峙している秀吉は兵力的には本来毛利軍より数が多く援軍がいなくても何とかなる状況だと考えられていました。

それなのになぜ援軍を送ってほしいと要請したのか…。

毛利家を秀吉軍単体で滅ぼしてしまった場合、手柄があまりにも大きすぎるために敢えて信長に援軍を請うことで信長に華を持たせて信長の秀吉に対する不信を取り除くための保身とも考えられていますが、この説の根拠は畿内の軍勢を一箇所に集めてもらう理由にあったといいます。

当時の織田軍は各方面に散らばっており、京の周辺にいたのは次席家老・丹羽長秀と信長の三男・信孝率いる四国遠征軍と光秀の統括する畿内方面軍の2軍でした。

その中で秀吉の援軍要請を受けた場合、四国遠征軍はこれから対長宗我部戦線に赴く関係上、援軍に送れるのは光秀の畿内方面軍のみでした。

光秀と結託している秀吉は援軍要請をすることで光秀の畿内方面軍を派兵すると先読みします。

信長も自分を頼られるのは自尊心をくすぐられまんざらではありません。

秀吉の読みどおり光秀を援軍として派兵します。

そして援軍を派遣したことで信長の周りには動かせる軍団が全てなくなってしまいました。

そして秀吉との密約通りに信長を抹殺。

後は秀吉と協力して織田家を乗っ取る…はずでした。

ところがここからの秀吉の動きの速さは尋常ではありませんでした。

信長討たれるの報に接するや否や直ちに毛利家と和議を結び、中国大返しを行うと6月13日には京の入り口に当たる山崎で光秀軍と激突してこれを破り、敗走した光秀は小栗栖の地で落ち武者狩りにあってその生涯を終えました。

信長が討たれてからの秀吉の動きがあまりにも出来過ぎているのです。

本能寺の変を伝える報は本当に毛利の陣と間違えて秀吉の陣にやってきたのか?

毛利軍に追撃されず講和が素直に成ったのも信長が討たれることが予め分かっていたからこそ根回しをしていたのではないか?

沼城からわずか1日で約70キロ離れた姫路城に撤退するなどはいくら秀吉が優秀といえど事前の準備が無ければとても無理だと考えられています。

そして光秀は光秀で信長を討った後は京などの畿内を押さえることをせずになぜか東側の攻略を行うなど、秀吉と結託しているからではないかと思える不可解な行動が目立つのです。

そう考えると光秀が秀吉に裏切られたのは誤算だったのか、秀吉は自分を絶対に裏切れない何かがあったのか全ては謎のままですが、歴史では信長の仇である光秀を討った秀吉が織田家の後継者戦争を制して天下人への道を邁進していくのです。

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