仏像

仏教では無分別が理想?

2018-04-12

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「分別のある人になりなさい」と言われたことはありませんか?分別のない大人はみっともない、そんな風に刷り込まれるともなく教え込まれて存在するのが、今の社会です。
ところが、仏教では分別よりも無分別が重視されていました。

分別の意味

分別とは、物事の道理がちゃんと分っており、世の中の常識に則って行動することを言います。
確かに、立派で大事なことですね。ところで、この分別が実は仏教用語で、どちらかというと「悟るのにはいらない」ものだと言うことはご存知でしょうか。むしろ分別がない、無分別の方が理想なのです。仏教での分別とは、ヴィカルパという言葉が元になっています。意味は「誤った判断」もしくは「自分の推量による認識」です。何だかあまりいいイメージがありませんね。といって、分別自体が悪いというわけではありません。相手のことをいくらか推し量ることは大事です。コミュニケーションが円滑になります。
しかし、その推量が間違っていたらシャレにならないことにだってなるでしょう。ところが、この「シャレにならない」などの認識自体が、仏教では間違いなのです。

分別智と無分別智

仏教での分別は分別智とも言います。これは人間の持つ智慧です。それも、悟っていない状態にあります。
人間関係と書きましたが、これはつまり、自分と他人とを分けた考えです。「だって自分は自分でしょう」と言いたくなりますが、これがそもそも間違い。
仏教ではすべての物質、事象は仮のものであり、自分だと思っている者も一時的な物で、仮のものでしかないのです。
自分と他人との境界線なんてものもありません。しかし人間にはと五蘊(ごうん)というものがあります。いずれも人間を形作る要素、心身の動きです。
これも一時的な物ですが、これのせいで苦しむ人間が大部分を占めているのです。
目や耳、鼻などの肉体が受ける外部の刺激を感じて苦悩したり喜んだりするのが分別智になります。
では理想は何かといえば、無分別智、通称無分別です。一般的に考えるととんでもない無分別ですが、本来の仏教では理想の境地でした。

分別にこだわらないのが理想

無分別とは「あの人は才能があるなあ」「テストでいい点とったもんね」と一喜一憂することなく、「全ては現象、ただ起こっているだけ。悔しいとか嬉しいと言う気持ちは一時的なもので、苦しみの原因だよ」とこだわらないのことです。心をなくせと言うのではなく、こだわらないことが重要とされます。妬みや自惚れから煩悩が生じることは多いのです。無分別は、煩悩を生じさせない悟りを得た仏の智慧と言われます。

まとめ

執着から煩悩が生まれて、それが苦しみを生み出します。無分別を持てば、ずっと楽になるのです。
「何もかも一時的だから」とやけになってすべてを放り出すのとは少し違います。どんなことも真正面から受け止めて、その上で「大したことではない」と執着しないことが肝要であり、理想なのです。

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