世界史

項羽はどうして劉邦に負けたのか?最強でありながら自滅した理由

2018-04-19

関連キーワード

中国史でも圧倒的なヒーロー・項羽

司馬遼太郎の著書「項羽と劉邦」でおなじみの項羽。圧倒的な強さは中国史上でも指折りで、そのヒーロー的要素から人気も高く、三国志の登場人物並みに多くの逸話や伝説が残ります。しかし、なぜその彼が、地方役人上がりの劉邦に屈することとなったのでしょうか。
その理由は、あまりにも強すぎたこと。そして、「匹夫の勇」と「婦人の仁」と評された彼の性格によるものでした。
では、これから彼の生涯とその為人を探り、劉邦に敗れたわけを解説していきたいと思います。

楚のエリート家系に生まれて

項羽が生まれたのは前232年。祖父・項燕は中国南方の大国・楚で大将軍を務めており、まさに彼は楚のエリートとして歩むはずでした。
しかし、秦の始皇帝の中国統一の戦において、項燕は戦死してしまい、やがて楚自体も滅亡に追い込まれます。そして、項羽は叔父の項梁に育てられることとなったのです。

少年時代の項羽は、手習いにも剣術にも身が入らない問題児だったそうです。
しかし、「自分の名前が書ければそれで十分。剣術は相手が一人しかいないから面白くない。だから、万人を相手にするようなことがしたい」と項羽少年は常日頃から口にしていました。すでにこの時、彼は将来のビジョンは持っていたようです。おそらく、秦への恨みも忘れはしなかったことでしょう。

転機が訪れたのは前210年。圧倒的な力で中国を統一した始皇帝が死去すると、二世皇帝による悪政、側近の権力乱用により、秦は混迷の一途を辿ります。さらに、各地の不満分子が次々と蜂起し、それは天下を揺るがす動乱へと拡大していったのです。
それに乗じた項羽は、叔父・項梁と共に会稽(浙江省紹興市付近)を抑えると、8千の兵を率いて秦への反旗を翻したのでした。

彼らの進撃はまさに破竹の快進撃と呼ぶにふさわしいものでした。実は、項羽は生涯70回余りの戦をしていますが、敗北はたった1度。いかに彼が強かったかがお判りになるかと思います。
そして秦の軍を蹴散らし、見事首都・咸陽(陝西省)に入城することとなったのです。

大胆すぎる作戦と非情な一面

彼が強かったのは、彼自身の強さだけでなくその用兵術にもありました。
兵力だけなら圧倒的な秦の軍に対して、彼は、川を渡った後にすべて船を沈め、3日分の食料を残して他は焼き払ってしまいます。こうして退路を断つことで、兵を死にもの狂いで戦わせ、勝ったのです。かなり強引なやり方ではありますが、誰にも想像できない作戦は項羽だからこそ考え付くものでした。カリスマ性も備えていたからこそ、この時はみな項羽に従ったのです。

しかし、彼には残忍な一面がありました。
相手にした敵は、降伏してもすべて皆殺しにし、その土地の領民までも手にかけることがしばしばあったんです。捕虜20万を生き埋めにしたこともありました。
投降してきた秦王一族も皆殺しにし、咸陽を焼き払い財宝を略奪するという暴挙にも出ています。また、挙兵の際に担ぎ出した楚王の末裔までも暗殺してしまい、自ら「西楚の覇王」と名乗ったのです。

ここまでは何とか順風満帆な項羽の覇王への道でしたが、彼はある存在をあまりに軽く見ていました。
それが、項梁と彼が挙兵して間もなく連合軍に加わってきた地方の下っ端役人・劉邦だったんです。
この男こそ、項羽が生涯唯一の敗戦を喫することになる人物でした。

項羽と劉邦

項羽が秦の都・咸陽へ入城しようとした時、何とすでに別働隊の劉邦がこの地に入っていました。
当然、先を越されてないがしろにされたと項羽は激怒し、劉邦を攻め殺そうとしました。
しかしここで、項羽の伯父・項伯が両者を取り成すため酒宴を開きます。項羽の参謀・范増はこの場で劉邦を暗殺しようと項羽に耳打ちしていましたが、劉邦のあまりにへりくだった態度に、項羽は殺す気をなくしてしまったんです。これが「鴻門の会」の故事となるわけですね。もちろん、劉邦の態度には演技も入っていたんですが、これを項羽は見抜けなかったんですよ。そこが、彼の人間としての甘さでした。

そして劉邦をみすみす逃がしてしまった項羽は、やがて劉邦と対決することとなります。これが「楚漢戦争」の始まりでした。
項羽の乱暴なやり方に反発した分子による反乱は、あちこちで起きました。項羽はそれを討伐に行き、行けば行ったで強いから勝てるわけなのです。が、いかんせんモグラ叩きのように起きる反乱に、だんだん追い込まれていきました。そのうちに、劉邦の連合軍の方が項羽軍よりはるかに多くの兵力を有するようになったのです。
それでも、項羽は何度も劉邦軍を蹴散らしていました。劉邦軍50万に対し3万の軍勢で勝ったこともあります。しかし、とどめを刺すには至らなかったのです。これもまた、彼の詰めの甘さであり、時勢がすでに劉邦に向いていることの証でした。

加えて、項羽は決定的な別れを経験します。それが、参謀・范増の出奔でした。
何だかんだとついてきてくれたこの参謀に去られたことで、項羽は頭脳を失ったも同然になってしまいました。もう少しだけでも、范増の意見を容れていれば…という局面がいくつもありました。そのひとつが、鴻門の会で劉邦を見逃してしまったことだったんですね。
とにかく、項羽は「俺様」であり、「俺ファースト」な人物でした。それが、結果として人心の離反につながっていってしまったのです。
一方、劉邦の元には有能な人材が続々と集まりましたが、その中には元は項羽に仕えていたものの殺されそうになったり、重く用いてもらえなかったりした者がいたんですよ。

垓下の戦いと最期

前203年、項羽はついに垓下(安徽省北部)で劉邦軍に包囲されました。
すると、四方から項羽の故郷・楚の歌が聞こえてきます。それを耳にした項羽は、こんなにも楚人が劉邦側についているとは…と自分の敗北を悟りました。これが「四面楚歌」の故事です。

そして覚悟を決めたこの夜、彼は愛妾・虞美人を傍に呼び、家臣たちと最後の宴を催しました。その席で、彼は虞美人への思いを詩に詠んでいます。彼女はこの後自殺したとも行方不明になったとも言われていますが、彼女の墓に咲いたヒナゲシの花を、別名「虞美人草」と呼ぶようになったのでした。

夜が明けると、項羽はわずかな兵を率いて包囲網を突破し、何とか長江の渡し場までたどり着きます。しかし、追っ手はすぐに追いついてきました。
そこで彼は「自分が滅びるのは天命によるもの。決して自分が弱いからではない」と渡し場の役人に言い残し、追っ手の只中へと駆けて行きました。
そして、敵の中に旧知の者を見つけると、「お前にこの首をくれてやろう」と自ら首を掻き切って最期を遂げたのです。享年31。

諦めさえしなければ、劉邦のように何度でもどん底から這い上がる粘り強ささえあれば、彼は再起できたはずです。しかし、彼は捨てるべきプライドを捨て去ることはできず、死を選ぶしかなかったんですね。潔さの漂う最期ではありましたが、彼のこうした為人こそ、彼を最後まで真の英雄にすることはできなかった理由でしょう。

けれど、鮮烈に散った彼の生き様は、私たちを魅了します。欠点さえも魅力になるほどの強さを持った猛将・項羽。天下を取れなかったからこそ、私たちは彼に引きつけられてしまうのでしょうね。

    キーワード一覧

    ▲ページトップ