世界史

「ヨーロッパの父」カール大帝、字は読めずともヨーロッパの礎を築いた豪腕

2018-04-20

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カール大帝=シャルルマーニュ

世界史を学校で習った時に、カール大帝もしくはシャルルマーニュという名を聞いたことがある方もいらっしゃるかと思います。
さて、どうして二つ名前が出てくるの?というところですが、「カール」はドイツ語。「シャルルマーニュ」はフランス語なのです。そして、「マーニュ」とは「偉大な」という意味で、つまりは「大帝」の意味になります。ちなみに、英語だと「チャールズ・ザ・グレート」となります。

ヨーロッパ史を語る上で絶対に欠かせない存在のカール大帝。
それは、彼が「平和なくして神を喜ばせることはできない」と言ったとおり、キリスト教の保護者としての信念の元に周辺諸国を制圧し、ひとつのキリスト教文化・政治圏を築いたからなのです。

カール大帝のルーツ

カール大帝のルーツはゲルマン人のフランク族に遡ります。
ローマ帝国を築き上げたローマ人にとって、ゲルマン人は野蛮人とみなされてきましたが、やがて帝国が衰退し東西に分裂、西ローマ帝国が滅びた後、5世紀後半になってそこに王国を建設したのがフランク族でした。この王国こそ、カール大帝を生み出すフランク王国であり、8世紀半ばになり成立したカロリング朝の創始者ピピン3世が、カール大帝の父に当たるわけです。日本では奈良時代に当たり、怪僧・道鏡が政治を牛耳っていた頃ですね。

ピピン3世はローマ教皇に接触し、領地を寄進するなどして関係を強化し、キリスト教国として領土を広げようとしていたところでした。
その基盤を受け継ぎ、768年に即位したカール大帝は弟と共同統治に当たります。しかし弟は間もなく亡くなり、事実上カール大帝ひとりの王座となりました。

「超」強気な軍事遠征

カール大帝はさっそく周辺諸国への軍事遠征を開始します。
彼の在位期間は46年でしたが、その間に50回超の戦争を行うという、まさに戦漬けの人生を送りました。それだけ、当時のヨーロッパが群雄割拠であったことの証明ですが、ここからカール大帝の快進撃が始まるのです。

彼の進攻は、772年頃から始まります。手始めは、ドイツ北部のザクセンへの出兵でした。ここの抵抗勢力はかなり手ごわく、10回以上の遠征を重ね、30年以上かけてようやく完全制圧となりました。

その間にも、カール大帝はアルプスを越えてイタリア半島のランゴバルド王国を攻めています。ここから迎えた妃がいましたが、追放してまで決行したのは、ローマ教皇からの要請があったことも大きかったようです。

他には、イベリア半島への遠征でスペインのカタルーニャ地方まで領土を広げ、オランダ地方のフリース族平定、南ドイツからオーストリアにかけてのバイエルン平定、さらに東方にまで遠征し、現在の東欧・中欧付近までを手に入れました。

唯一の敗北:ロンスヴォーの戦い

休みなく遠征を続けたカール大帝は、生涯にわたってほとんど負け知らずでした。
しかし、唯一と言ってもいい手痛い敗北を喫したのが、ロンスヴォーの戦いです。
これは、イベリア半島を支配していたイスラム王朝・後ウマイヤ朝と休戦協定を結び、反乱が起きたザクセンへ急ぐ途中に起きた戦いでした。

ピレネー山脈西端部のバスク地方の民・バスク人はピピン3世に服従したものの、敵対感情は持っていました。加えて、カール大帝の駐留軍がバスク地方で圧政や街の破壊など乱暴の限りを尽くしたので、ついに怒りを爆発させたのです。

彼らの急襲により、カール大帝の軍は混乱状態に陥ります。そして、ここで彼は多くの重臣を失ってしまったのでした。その中には、文学作品「ローランの歌」の主人公となり伝説となった勇猛な武将・ローランもいたのです。

王国の行方に影を差すような敗北ではありませんでしたが、カール大帝にとってはメンタル的に打撃を受けたことでしょう。

カール大帝の戴冠とヨーロッパ世界の成立

ロンスヴォーの戦いは痛手ではありましたが、カール大帝の力に影響力を及ぼすものではなく、彼は数多くの軍事遠征を成功させ、西ヨーロッパのほとんどを手中に収めてフランク王国の全盛時代を築きました。これはすなわち、彼がこの地のキリスト教化に多大なる貢献をしたということにもなります。
また、反対派に襲われたローマ教皇レオ3世を助けたこともあり、キリスト教の保護者としての姿勢を明確にしたカール大帝に対して、レオ3世はついに決断を下しました。

800年、カール大帝はクリスマスのミサに列席するため、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂を訪れます。
そこで、レオ3世はカール大帝に「ローマ皇帝」の帝冠を授けたのです。
つまり、滅亡していた西ローマ帝国の帝位に就くことをローマ教皇が認めたということでした。
こうして、ゲルマン(フランク族の大元はゲルマン民族)・ローマ・キリスト教という三大文化・政治要素を持った、一大帝国が誕生することとなったのです。
これがつまり、ヨーロッパの成立でした。そしてカール大帝は後に「ヨーロッパの父」と呼ばれるようになったわけです。

一方、東西に分裂したローマ帝国のうちの東側であるビザンツ帝国は、カール大帝を承認しませんでした。東西ローマ帝国はお互いの皇帝を認めず、相手を「僭称」だと主張することが多かったので、これは仕方のないことだったのかもしれません。

カロリング・ルネサンスと宮廷学校

カール大帝は、キリスト教の保護者として、カトリックの教えを広めるために各地に修道院と学校を建設し、ここから官吏エリートの養成を図りました。
また、広大な領土統治のために地方の軍事・行政権を持つ「伯(コムス)」を任命しています。しかし伯たちを見張るために、巡察使を派遣して中央集権を図ることも忘れませんでした。
一方、貨幣制度を整えたり、インフラを整備したりして物流を強化するなど、ローマ帝国の崩壊によって停滞していた経済を建て直す努力もしています。

彼の宮廷は主にドイツのアーヘンにありましたが、ここに多くの知識人など有能な人材を集め、学芸と教育に力を注ぎました。彼の宮廷は「宮廷学校」と呼ばれるほどで、ラテン語教育や古代文学についての議論など、さながらルネサンスのような雰囲気を醸し出していたのです。そのため、これは「カロリング・ルネサンス」と呼ばれています。
このカロリング・ルネサンスはこれまでの大文字表記を「カロリング小文字体」という表記に変えて読みやすくしたため、多くの古代文学の写本が流通しました。現在、私たちが古代ローマやギリシャの文学に親しめるのも、この動きがあったからこそなんです。

常に「学ぶ」姿勢こそ、ヨーロッパを手中に収めた秘訣

実は、カール大帝自身は読み書きができなかったそうです。しかし、毎晩のように石板に字を書いて練習を重ねる努力をしていたんだそうですよ。こうして、ラテン語をマスターしただけでなく、ギリシャ語もわかるようになったと言われています。
戦に明け暮れる中、わずかな時間でも学びに使った彼の姿勢は、見習いたいと思わされますね。食事中でも歴史書を側近に読み聞かせてもらっていたとか。

814年に死去した彼が葬られたアーヘン大聖堂は、最初に世界遺産登録された12の遺跡のうちのひとつであり、今も遺骨は保管されています。彼がどれだけ大きな業績を残した存在だったか、このことからも分かりますね。

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