日本史

日本人で唯一世界地図に名前を残した探検家・間宮林蔵 その裏稼業とは

2018-05-16

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間宮林蔵という探検家をご存知でしょうか? 江戸時代後期に徳川将軍の御庭番(隠密)として活躍した農民出身の役人で、日本人で唯一世界地図に名前を残した探検家でもあります。今回は間宮林蔵がどのような偉業を成し遂げたのか、その半生とともに紹介していきたいと思います。

幕府の命で蝦夷地へ渡る

間宮林蔵は1780年、常陸国筑波郡(現在の茨城県つくばみらい市)に武家だった先祖を持つ農民の子として生まれました。その後、幕府の利根川の東遷事業に従事していたところ幕臣である村上島之丞に才能を見込まれ、役人として働くようになったとされています。当時はロシア人が千島列島へ南下してきていたこともあり、幕府は蝦夷一帯の警備を強化するために蝦夷地域の調査に踏み込もうとしていました。村上島之丞の一行がその調査に向かうことになり、間宮林蔵も1799年に蝦夷地へと渡ることとなったのです。

その後、間宮林蔵は日本全国を測量し「大日本沿海輿地全図」を作成したことで有名な伊能忠敬に測量を学び、1803年には西蝦夷地の測量を終わらせ、得撫島(うるっぷとう)までの地図を作成しました。さらに1808年からは松田伝十郎と共に樺太半島へと渡り、現地のアイヌ民族の従者と共に東岸から北上する形で樺太の探索を進めていきます。最終的に北樺太西岸のノテトで松田伝十郎と合流し、北樺太西岸ラッカに至った間宮林蔵は、この時樺太が島であるという推測を打ち立てたと言われています。その推測を確かなものにするため、間宮林蔵は1809年に宗谷へと帰着した後再調査を願い出て、再び樺太の探索を実行に移したのです。

樺太半島をたったひとりで探索した間宮林蔵

最初は松本伝十郎と2人で樺太を探索していた間宮林蔵でしたが、再調査の折にはたったひとりで宗谷から樺太へと向かい、調査に踏み出したと言われています。厳しい寒さが続く冬季を挟み、およそ1年半の間樺太を探索した結果、ついに間宮林蔵は樺太と大陸の間に海峡があることを発見したのです。この海峡は現在も間宮林蔵の名を冠した「間宮海峡」という名称で親しまれています。

間宮林蔵の生誕200周年にあたる1980年には、北海道稚内市の宗谷岬に間宮林蔵のブロンズ像が設けられました。遠く樺太を臨むように作られている立像で、肩には海上計測用の「縄索」が掛けられているなど、当時の服装も見事に再現されています。

間宮林蔵は御庭番だった?

もともと樺太の探索自体がロシアと清国に対する隠密行動ではありましたが、それ以外にも間宮林蔵が御庭番として暗躍していた記録は残っているそうです。実際に間宮林蔵は変装が得意で、時には怪しまれないように敢えてぼろぼろの格好をして調査にあたったこともあったと言われています。しかし晩年は御庭番としての仕事も難しくなり、1844年に永眠に至りました。ちなみに間宮林蔵は帰郷後に当時の探索の記録を、「北夷分界余話(ほくいぶんかいよわ)」と「東韃地方紀行(とうだつちほうきこう)」という2冊の本に記しています。興味がある方はぜひ彼の冒険譚も併せて読んでみてください。
また、間宮林蔵の生まれ育った茨城県つくば市には、彼に関係する貴重な資料が展示されている「間宮林蔵記念館」もありますので、そちらもぜひチェックしてみてください。

間宮林蔵記念館
場所:茨城県つくばみらい市上平柳64-6
電話番号:0297-58-7701
開館時間:9:00〜16:30
休館日:毎週月曜日 12月28日〜1月4日(月曜日が祝日・休日と重なる場合は次の平日)
入館料:個人100円、中学生以下:無料、団体(15人以上):50円

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