仏像

日常を支配するカルマ

2018-09-12

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日常を支配するカルマ

カルマは「業」と称されます。そこにつきまとうのは、何だか仰々しいイメージです。
古くはお釈迦様よりさらに前のインドで生まれたヴェーダ思想が元になっており、「死後は生前の行いによって行き先が変わってうんぬんかんぬん」と何だか堅苦しそうで、難しそうで、身構えてしまう人もいるでしょう。
しかし、カルマは何も特別なものではありません。実は日常の中にもカルマが作用しているのです。
「勉強をしなかったからテストの点が悪かった」「昼寝をしたから夜眠れなくなった」など、ごく些細な所にまで及びます。
情けは人の為ならずとのことわざがありますが、親切心で老人に席を譲ったら窓の外に美しい夕日が見られた、ということだってなくはないのです。
いいことをすればいいことがあるし、悪いことをすればそれが帰ってくるのがカルマの基本原理とされます。
「いいことをしたのに何も起きなかった」といったこともあるでしょう。報いが目当ての善行よりも、報酬を期待しない善行の方が尊いのですが、いつか何かしらの形で帰ってくるはずです。
逆に、何か悪さをすればそれも必ず帰ってくるでしょう。難しく考えなくてもいいのです。まずはできることから始めるというように、分かるところから見つめていきましょう。

    カルマはあくまで自分が原因

    「何でもっと美人に生まれなかったんだろう」「何でもっとお金が溜まらないんだろう」と思う人も多いでしょう。
    宗教においては「それはカルマのせいだよ」とすることがあります。「じゃあ、どんなカルマでこうなった?」と思うでしょう。しかしそれは勧められていません。
    仏教では「前世のカルマの修正というより、来世の為に善行を積む。それが善いカルマとなる」というものなので、「今の状況を悪いと感じるなら前世の自分が何かをやらかしたことだと取り敢えず受け入れて、その上で善行や徳を積もう」という姿勢が大事になってきます。
    「あなたが悪い」と責めるのではありません。ただ誰か、或いは何かのせいにしていたら一歩も進めないということを覚えておいてください。
    そうなると、またカルマは改善されないままになってしまいます。原因が分からなければ意味がない、とお考えでしょうが、自分の状況をまず受け入れることで、何かしらは見えてきます。それがカルマ改善の第一歩です。

    『蜘蛛の糸』の原案小説『カルマ』

    芥川龍之介の有名小説『蜘蛛の糸』は、お釈迦様も登場すれば地獄極楽の様子も描かれています。何とも仏教的なテイストの溢れる作品です。
    簡単に内容をおさらいしましょう。極楽浄土を散歩中のお釈迦様がふと池に目をやると、地獄の光景が目に入りました。
    この作品では極楽浄土の池の真下に地獄があり、何万里と離れてはいるもののハッキリと地獄が見えるのです。
    お釈迦様は一人の亡者に目を留めました。カンダタという大悪党です。しかし、「この男は一度だけ、『可哀想だから』という理由で雲を殺さずに助けたな」とカンダタを救うために、極楽にいた蜘蛛の糸を地獄に垂らします。
    カンダタは文字通り降ってわいた幸運に喜んで縋りました。地獄を抜け出し、極楽入りまで目指します。
    ところが、地獄から出たいのは他の亡者も同じ。後から後から昇ってくる亡者に対し、「この糸は俺のものだ!降りろ!」と怒鳴った途端に糸が切れて、カンダタは地獄へ逆戻り。お釈迦様は手前勝手なカンダタの心を悲しみ、散歩に戻るという筋書きです。
    実はこのお話は、芥川龍之介のオリジナルではありませんでした。芥川作品は、『地獄変』など古典文学に題材を取ったものもあります。
    『蜘蛛の糸』の原案は、ドイツ出身のアメリカ作家、ポール・ケーラスの作品です。タイトルは、そのものずばり『カルマ』。これの和訳版、『因果の小車』を元にしています。 ケーラスは作家ですが、単なる物書きではなく、哲学や宗教の研究も行っていました。そんなケーラスによる元々の『蜘蛛の糸』をかいつまんで説明いたしますと、慈悲心にあふれる僧侶が、死に瀕して己の罪を悔い、助けを乞う盗賊に語ったたとえ話、というストーリーです。

    盗賊は言います。「私は我執(目に見える肉体が絶対という考えとそれに執着すること)による罪を沢山成してきた。このままではカルマによって地獄に落ちてしまう。私を悪いカルマから解放してくれる教えには会えなかった。」
    そんな盗賊に、僧侶が語って聞かせたのが『蜘蛛の糸』の例えでした。原案の方は、より仏教的な内容です。
    まず、お釈迦様悟りを開いて仏陀となり、宇宙が始まって以来の凄まじい光が発生します。これにより地獄も照らされました。と言っても一筋の糸程度の細さです。それでも地獄の亡者に希望を持たせるには十分でした。

    カンダタは、まさに縋る思いで話しかけます。「私に御慈悲をください!生前の罪によりこのような目に遭っていることは重々承知です。生まれ変わったら善人となりますので、地獄から抜け出すチャンスをください」
    お釈迦様はちょっと考えました。「まあ、カルマの原理に従えば、悪いことをした場合、悪い結果にはなるよな。悪い奴は滅びなくちゃいけないんだから。でも最初から最後まで悪党、という存在もないんだよね。大事なのは、小さくてもいい、善意の種なんだから」と考え、「お前は生前、何か善いことをしたかな?もしあったら助けてあげるよ」 カンダタは思い出せませんでした。しかし、お釈迦様には神通力があったので、カンダタの過去を洗うことができます。すると、「可哀想だ」と感じて蜘蛛を踏まなかった過去が見つかりました。
    「お前の善行が見つかったから、この蜘蛛の糸に捕まって登って来なさい」と、糸を垂らします。カンダタの末路は芥川版と同じですが、細部が違っていました。
    僧侶が言うには、重要なのは信じる心、信心でした。カンダタは蜘蛛の糸という、目に見えて細い糸が今にも切れてしまいそうだと感じ、お釈迦様から頂いた自分だけの救済の道具だと勘違いをしました。
    亡者たちを拒んだのも致命的でした。彼らは救済を求め苦しむ人々の象徴です。彼らが集まれば、新人の糸はより強く確かなものになるなずでした。糸が細かろうと、構わず登っていけば極楽にも行けたのです。ひとえに、カンダタが目に見えるもの、かりそめの姿である我執に囚われていたせいでした。
    これを聞くと、盗賊は「私がもし、その蜘蛛の糸を掴めたら一身に登る」と心に決め、今まで盗んだ財宝の隠し場所を白状して息絶えた、とのことです。

    ニューエイジにおけるカルマ

    20世紀の終わり頃、ニューエイジなるものが生まれました。これはそれまでの周到とは毛色が違います。
    神仏を崇め縋るのではなく、人間の計り知れない可能性を主張し、より高い次元や宇宙との繋がり、そして進化が目的です。
    ニューエイジという新たな思想の出現はキリスト教でも予言されていましたが、仏教やヒンドゥー教と同じ要素としてカルマや転生が挙げられます。
    「カルマによっては地球よりももっと高レベルの星にも生まれ変われますよ」「そもそも苦しみとか悪なんていうものは幻影ですよ」としており、次の段階への進化を目指すのがニューエイジです。
    ここでのカルマは、次の段階に進むためのステップアップとされています。

    監修:えどのゆうき
    日光山輪王寺の三仏堂、三十三間堂などであまたの仏像に圧倒、魅了されました。寺社仏閣は、最も身近な異界です。神仏神秘の世界が私を含め、人を惹きつけるのかもしれません。

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