日本史

戦国大名が築いた元寇防塁

2018-11-23

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1 元寇防塁

中世の主役は草深い田舎に住む武士たちでした。彼らはそれぞれの地に館をかまえて土着しました。その力を背景に、源氏の棟梁は鎌倉に幕府を開いたのです。

幕府の支配力が衰えた中世後期には、いわゆる戦国大名があらわれ、各地に舘と城を核とする拠点を築いていきます。

まず外敵防衛の施設として、元寇防塁をとりあげていきます。1274年、元・高麗軍約3万は対馬・壱岐を侵し、博多湾に侵入・上陸しました。元軍の集団戦法や新兵器「てつはう」などに苦戦をしいられた鎌倉武士は、やむなく水城に退くことになります。

この経験を踏まえた幕府は湾岸防衛のため、石築地構築にのりだし、博多湾の東端香椎から西の今津浜まで約20kmにわたって石塁を築かせます。完成したのは1280年でした。

現在も残っている国史跡の防塁は10ヶ所あります。その多くは砂に埋もれて確認できないが、今津長浜元寇防塁は約10mほどが完全に発掘されて昔の面影をしのぶことができます。石塁の高さは約2m、幅は約3mあります。

弘安の役(1281年)では、元軍は上陸しなかったので効果のほどはわかりませんが、かなりの威力は発揮できたと考えられます。

石築地の維持・補修は九州各国に割り当てられ、室町幕府初期のころまで続きましたが、以後は放置され、埋没していきました。発掘調査の開始は明治以降になってからでした。

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2 地方武士の館

鎌倉時代の武士は平地や丘陵に居館をかまえ、外敵への防備も心がけていました。「一遍上人絵伝」には、筑前の武士の館のありさまが描かれています。

主人夫妻が客をもてなしている母屋は、板敷で一部に畳がしかれています。縁の近くには鷹がいて、馬場や馬小屋もあって、いかにも武士らしい生活ぶりです。

この建物がいわゆる武家造で、寝殿造の簡素化ともいえますが防御への気配りもみられます。一遍がいる門の上には、物見櫓があり、家人が控えています。居館は板塀と堀とで囲まれ、塀の代わりに竹林がつくられています。

越後の江上館は、有力御家人三浦氏から分かれた中条氏の館です。

戦国期の舘は平地にあり、約100㎡の内郭は、土塁と塀に囲まれています。深田となっている堀は深さ1m~2mで、川の水や湧き水をたたえ、外敵防御のほか、周辺に展開する直営田へ水を供給していたと考えられます。

内郭の中には主殿などの建物があります。掘立柱の質素な建物で、屋根は茅葺か板葺だと思われます。南西隅は鍛冶の仕事場だったようで、フイゴが出土しました。

興味深いのは舘の四隅に稲荷社・古峰社・鷲麻社という神社や石碑などがあることです。鬼門にあたる北東隅には「阿弥陀如来」と刻んだ石卒塔婆が立っていました。武力をもつ武士も、神仏を畏れ、信仰心が厚かったことを示しています。

中世の武士は自らの所領を「一所懸命」と心得、生活のすべてをそこにかけました。舘の周辺には直営地をもち、在地と密着した領主だったのです。

武士といってもさまざまの階層があります。「男衾三郎絵詞」を見ると、兄の吉見二郎の邸は都の貴族さながらの華麗さだが、弟の三郎の家は弓矢一筋の武士らしい質素な造りで、弓を引く男の上方に描かれた室内は、板敷に薄縁をしいただけで、数人の男が甲冑や弓矢の手入れに余念がありません。描かれた建物も質素なものです。  

3 平泉の館

東北の王者、奥州藤原氏の拠点、平泉の館はどうでしょうか。
1988年、柳の御所跡と呼ばれる藤原三代の居館跡の発掘調査が北上川ぞいの台地上で93年までの六年計画で開始されました。

舘の所在地は北上川と猫間が淵とに囲まれた標高24m~28mの台地で、周囲は幅約13m、深さ4.6mの空堀で囲まれています。おそらくもとは南北400m、東西300mほどの広さがあったと考えられます。

堀には南と東に橋が架かっていました。堀は大規模な箱堀で、内側には土塁が推測できます。平泉の館は安定した支配の下で政庁としての機能を果たしたのでしょう。

板塀のうちには建物の跡があり、多くの土器・陶器・宴会用食器などが出土しました。どうやら政庁ではしばしば儀式や宴会が行われていたようです。

板塀の外には小さな家が建ち並んでいました。おそらく使用人・職人たちがこのあたりに住んでいたと思われます。

「吾妻鏡」によると、平泉の館の周囲には伽羅の御所と呼ばれる秀衡の常の住居や、嫡子国衡、三男忠衡、四男隆衡の邸や宇治の平等院を模したという無量光院などがあったといいます。発掘調査をすすめていくと建物の跡が続々と現れました。政庁と居館と寺院、平泉の中心部はこの3つで成り立っていたようです。

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4 鎌倉の建設

源頼朝は幕府開設の地に鎌倉を選びました。鎌倉城ともいわれるように、この地は三方を標高100m前後の山で囲まれ、南は海に面する天然の要害です。源氏との関係も深く、早くは五代前の源頼義は岩清水八幡宮を由比ガ浜に造営していました。

鎌倉は尾根を切断して外部への交通路を開いていました。これが「切通し」で、有名なものが7つあります。両側は断崖で、道幅を狭くし、鎌倉防衛という重要な機能を果たしました。また、平地の乏しさは「やぐら」という墓制をうみました。これは崖に横穴を掘り、中に五輪塔などを納め、岩壁に仏像を彫ったりしています。ここに葬られたのは武士や僧侶階級で、庶民は火葬骨を共同の納骨穴に埋葬されたようです。

鎌倉に入った頼朝は、大倉に幕府をかまえ、その西に鶴岡八幡宮を移動させました。有力御家人たちも幕府の周辺に屋敷をかまえ、しだいにまわりの谷の奥へ進出していくことになります。

八幡宮から南へ走る若宮大路は、鎌倉の都市計画の基軸でした。大路は幅約34m、両側に幅3mの側溝があり、その外側の屋敷地との間に築地が築かれました。大路の左右に並ぶ屋敷は大路に背を向けて建てられていました。大路は鎌倉を東西に分け、防衛・防災などの機能を果たしていたのです。

若宮大路と平行して東に小町大路、西に今大路が開かれ、これらを横切る形で東西に横大路、東大路がつくられました。

13世紀前半、執権北条泰時の時代に鎌倉は様相をかえます。まず、幕府を大倉から宇都宮辻子に移し、ついで由比ガ浜東部の和賀江に防波堤を築いて港をつくり、中国からの物資も流入しました。

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