廃城にされる運命を切り抜けた?丸亀城

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1 丸亀城の築城と廃城

一度は廃城となり、さらに城主が何度も代わって数奇な運命を持つ城が、香川の丸亀城です。

丸亀城は、現在の香川県丸亀市の市街地南方にある緩やかな丘陵にある標高66mの亀山に築かれた平山城です。亀山の周囲に堀を設け、それより内側を縄張としました。天守は12の現存天守の中ではもっとも小規模ではありますが、三重にかつ扇形に積み重ねられた石垣の上に佇む姿は美麗かつ威厳があります。

丸亀城は、豊臣秀吉による四国征伐後の1587年に、讃岐17万3000石に封ぜられた生駒親正により築城されました。讃岐の城といえば高松城が有名ですが、その支城として築城されたのが丸亀城です。それまで亀山には室町時代初期に、管領の細川氏の家臣が築いた砦がありましたが、これをかなり大幅に整備し直したもので、ほぼ新規の築城といっても問題はありません。生駒親正は主人を織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と変えて生き延びた非常に世渡り上手な武将です。
関が原の戦いでもみずからは西軍につき、息子の一正には東軍につかせました。
どちらが勝利しても生駒家が存続できる処置をしたのです。特に一正は東軍先鋒としての軍功が認められ、その功績により生駒氏の領土は安堵されました。親正は西軍についた責任をとり家督を一正に譲り、剃髪し高野山に入ります。
ほどなくして戻りますが、讃岐で没しました。

こうして讃岐には高松城と丸亀城の二つの城が残り、生駒氏の支配が始まりましたが、1615年に徳川幕府が軍備縮小を目的とした一国一城令を発したため、丸亀城は廃城の危機に瀕しました。
しかし、確かに廃城になったものの、破壊するには忍びないと生垣などでその姿を隠したのみで、丸亀城は次に歴史の表舞台に出るまで待つことになります。

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2 生駒氏の改易

1640年、生駒氏がお家騒動により改易になります。事の発端は藤堂高虎の孫であり、生駒正俊の子である小法師(元服後は高俊)にあります。小法師は11歳にして家督を継ぎますが、幼少のために外祖父である高虎が後見することになりました。高虎は家内を御するために家臣の前野助左衛門と石崎若狭を家老に加えさせ、生駒氏の力を緩やかに押さえこんでいきます。

高虎が死亡したあと、その跡を高次が継ぎ、さらに後見の座も引き継ぎました。1633年に主席家老の生駒将監が死ぬと、藤堂家から入っている前野助左衛門と石崎若狭は高次の意向を背景に権勢を振るい、藩政を牛耳ったのです。

藩主である高俊は政治に興味を示さず、両名に藩を任せきりにし、自らは美少年を集めて男色に耽りました。高俊の正室は心を傷めて、父である土井利勝に報告し、それを聞いた利勝は幾度も高俊を諫めましたが、彼は聞き入れませんでした。

1635年、生駒家は江戸城改修の手伝い普請を命じられ、これの費用を材木商に借りて行いました。この返済のために高松城付近にあった松林を前野助左衛門と石崎若狭は切り倒してしまいます。この地は生駒家の戦国時の祖である親正が高松を要害としたときに伐採を禁じた林でした。生駒家を蔑ろにする両名の行動に生駒筋の藩士らが激怒したことは当然でした。家老の生駒帯刀は、先の二名の乱行を親類である藤堂高次に訴えました。高次は驚き、前野助左衛門と石崎若狭を藩邸に呼びつけ、諫めます。しかしこの後も対立を繰り返し、ついに幕府の裁定が下ります。帯刀派は忠誠心ありとして松江預かりとなり、前野・石崎派は主だったものが死罪となりました。藩主である高俊は家内不取締りで改易になりました。

3 丸亀城の伝説

後に讃岐は東西に分割され、東讃12万石、西讃5万3000石に分けられます。その西讃に山崎家治が入封します。城が必要となり、廃城扱いであった丸亀城がめでたく復活し、藩主居城として発展を遂げることになりました。

家治は入封後すぐに、城と城下町の発展のために将軍から築城費を賜りました。ここに四国地方の鎮守として丸亀城を育てようとした幕府の思惑が見えます。家治は天守、櫓12基、城門8をつくり、大きく城を作り変えました。特に石垣の美しさは有名で、また、その石垣にまつわる石工の悲哀に満ちた物語も有名です。

石垣づくりの名人であった羽坂重三郎は、家治に命じられ丸亀城の石垣をつくっていました。完成間近のある日、家治による視察があり、家治は一目見て石垣を気に入り、重三郎を褒めました。調子にのった重三郎は、その目の前で緻密につくった石垣を棒を足場としてやすやすと登ってしまいました。それを見た家治はふと「敵に通じられては厄介だ」と思い、猜疑心から彼を殺してしまいます。この哀れな職人がつくった石垣は山麓から計60mに及び、同時代の石垣職人にこの高さに及ぶ者はおらず、その美しさと高さは他藩に真似のできない石垣として称賛を浴びました。

山崎氏の断絶後は代わって京極高知が入ります。唐破風、千鳥破風を施された天守は三重三階の15mと小さなものですが、堂々とした佇まいのものです。

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