城無し大名の本拠地「陣屋」の意味するものとは?

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1 陣屋とは

陣屋とは普通は石高が3万石以下の国持ち大名や城持ち大名以外の大名が持った屋敷です。また上級の旗本も自分の知行地に陣屋を構えていました。さらに大藩の家老の知行地に政庁が置かれた屋敷もこれに含まれます。また大規模な奉行所、長崎奉行所や函館奉行所などを陣屋に含めることもあります。

陣屋に藩庁を置く大名のことを陣屋大名(無城大名)と呼びました。この陣屋は一般的に城郭ほどの堅固さや規模は持っておらず、行政や居住が主な用途でした。

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2 大名の分類

そもそも大名を分類するのに、その領土の大小や城郭の有無などを基準とすることがあります。
元和元年(1615年)の武家諸法度では「国々の大名・小名」といい、また乗與を制限した箇条では「国大名以下一門の歴々」は許可がなくても乗ることを認めています。寛永12年(1635年)の武家諸法度では、「大名・小名」のほかに「国主・領主」といい、「国主・城主・一万石以上」とも言っています。ことに「乗與は一門の歴々、国主・城主・一万石以上、ならびに国大名の息、城主および侍従以上の嫡子、あるいは年50以上、あるいは医陰の両道、病人はこれを許す」として、明らかに差別をつけています。すなわち、国主であれば本人とその子息、これは嫡子も庶子も含みます。城主は本人と嫡子、一万石以上は本人だけ、ということになります。この規定はのちのちまで用いられることになります。

国主というのは、一国以上を領有する者をさしますが、さらにそれに准ずる者も加えます。城主は居城を持つ者で、これにもそれに准ずる者がいます。そしてその他が居城がなくて「陣屋」をかまえている者ということになります。

国主・准国主は国持大名・国持大名並とも言いますが、すでに室町時代にも国持衆・准国持の称があって、それを使いならしたものです。国主または国持大名というのは、一国以上を完全に領有する者ですが、そういう大名はとくに本国持といい、不完全ではありますが、大領土を有する者を大身国持といいます。どの大名が国持大名であるかを幕府で明示したことはなく、慣例的に呼んでいたので、国持大名の区分や数は明確ではありませんが、「残集柳営秘鑑」によって示すと次のようになります。

1.国持大名

(1)本国持
加賀・能登・越中 1022700石 金沢 前田家
薩摩・大隅・日向 770800石 鹿児島 島津家
周防・長門    369000石 萩  毛利家
因幡・伯耆    325000石 鳥取 池田家
阿波・淡路    257900石 徳島 蜂須賀家
筑前       520000石 福岡 黒田家
安芸       426000石 広島 浅野家
備前       315100石 岡山 池田家
土佐       242000石 高知 山内家
対馬(10万石格) 20000石  府中 宗家

(2)大身国持
陸奥       625000石 仙台 伊達家
肥後       545000石 熊本 細川家
肥前       357000石 佐賀 鍋島家
伊勢・伊賀    323000石 津 藤堂家
筑後       220000石 久留米 有馬家
出羽       205000石 秋田 佐竹家
出羽       150000石 米沢 上杉家
大和       150000石 郡山 柳沢家

「残集柳営秘鑑」では、このほかに福井の松平氏(30万石)と松江の松平氏(18万石)とを加えて、国持20家としています。このうち柳沢氏を除いて南部氏を加えて20家とするものもあり、宗氏を除くこともあります。

2.国持並大名

伊予       100000石 宇和島 伊達家
筑後       119647石 柳川  立花家
陸奥       107000石 二本松 丹羽家

立花・丹羽両氏は、外様の席である柳の間詰ですが、授四位下に進むと大広間に列し、国持並とされるのです。なお平戸の松浦氏は壱岐一国を領し、小浜の酒井氏は若狭一国、鳥羽の稲垣氏は志摩一国を支配しましたが、国主のなかには入れません。松浦・稲垣両氏は小藩ですが、酒井氏は12万石を領しているので、その区切りは曖昧です。

3.城持(城主)

4.城持並(城主格)

5.無城(領主ともいう)

となっていて、城持並は無城ではありますが、格式が城主に准ずるもので、嫡子も授五位下に叙せられます。幕末には、国持は20家、城持が128家、城持格が16家、無城が111家でした。この無城の大名は基本的に「陣屋」で政治を行い、住居を構えていたことになります。

国持といい、城持といい、家の格であって、老中になるには城持を原則とし、石高も三万石以上が基準で、それ以下のものが老中になると加増されるのが例となっていました。つまり、「陣屋」にいる大名は基本的に高い役職にはつけないということです。

3 龍岡城

幕府の陸軍総裁などを務めた田野口藩主松平乗謨は、もともとは三河国奥殿から移ってきた若い小藩主でしたが、洋学に詳しく、文久3年(1863年)フランスの築城家ボーバンの意見を採用して様式城郭の龍岡城を築き、三年余りで完成しました。ここは、元々は藩庁が置かれていた陣屋という扱いでしたが、そこを大幅に強化したものです。城の総面積は66000平方メートルで外城はその四分の三ぐらいを占め、板塀で囲んで家中屋敷をおきました。

内城は堀と石塁・土塁で囲まれ、五角形です。この五角形になる城郭は日本に函館五稜郭とここにしかありません。しかし砲座は南西に一つあるだけで実用性は乏しくなっています。

城内には大手門を入って中央に藩主の住む御殿があり、長屋もありましたが、明治になって建物は売却され、今は台所が残っているだけです。

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